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クエリ検索: "発掘調査"
5,882件中 1-20の結果を表示しています
  • 跡津川断層
    発掘調査
    活断層研究
    1990年 1990 巻 8 号 23-29
    発行日: 1990/09/25
    公開日: 2012/11/13
    ジャーナル フリー
  • 西アジア文化遺跡
    発掘調査
    オリエント
    1969年 12 巻 1-2 号 147-148
    発行日: 1969年
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 中世都市鎌倉の復原に向けて
    河野 眞知郎
    日本考古学
    1994年 1 巻 1 号 169-187
    発行日: 1994/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    鎌倉市佐助ケ谷遺跡で出土した『指図』資料は既報のものだが,報告書での検討が充分でないので,報告者の諒解を得て再検討を加える。『指図』は折敷板に墨書されたもので,13世紀第4四半期~14世紀初めの層から3片出土していて,そのうち同一個体の2片を主にとりあげる。墨書は両面にあり各部分ごとに検討してみると,A面とした側には道路と楼門,建物2棟以上,棚(塀)らしきものが描かれている。B面には垣根と冠木門,道路,網代塀のほか,多くの建物が描かれたと判断できる。図法として建物の柱位置には墨点が打たれ,壁面(?)には線が引かれ,描線の一部は定規を使い,またある程度縮尺をも考慮している。また門と網代塀は側面観を描き,垣根は波線を使うなど,指図としての表現技法に従っている。これを鎌倉に遺る著名な指図資料である『建長寺指図』(元弘元年,1331),『八幡宮天正指図』(天正十九年,1590)と比較してみると,図法の正しさが裏付けられるばかりでなく,建長寺の建物と類似のものを見出すこともできる。中世の絵画史料である絵巻物との比較は想像の積み上げでしかないが,それでも『法然上人絵伝』,『一遍上人絵伝』などに,『指図』と類似の建物などを見出すこともできる。さらにこれまでの鎌倉の発掘遺構との比較からは,門や塀,建物の種類の特定なども可能かと考えられる。以上のような検討をふまえてみると,佐助ケ谷『指図』は寺院の郭内などの広い地域内の一画ごとを描いたものらしく,佐助ケ谷遺跡を含めた鎌倉の「都市」の一局面があらわれたものとみられる。『指図』描者は番匠の頭領「大工」級の者で,寺内の作事の設計・施工・管理に携わる者であったと思われる。その『指図』が他職種の加工具などと共に廃棄される佐助ケ谷遺跡とは,B面に描かれるように,寺によって組織・集住させられた技術者(職人)たちが寺の郭内の一画に在ったものと推測できる。これら技術者が都市鎌倉の経済活動を技術面から支えると共に,その技術系譜は後世へ伝えられて日本各地に出現しうることも考えられる。
  • 大阪府下の埴輪窯跡出土埴輪の産地同定
    井上 巖
    日本考古学
    1997年 4 巻 4 号 91-107
    発行日: 1997/10/10
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    焼成温度の低い縄文土器,弥生土器,土師器,埴輪等では胎土を構成する粘土鉱物や造岩鉱物への熱による影響は比較的低く,X線回折試験で粘土鉱物や造岩鉱物を検出することができ,土器胎土本来の鉱物組成に近いものが得られる。鉱物組成を解明することで土器がどのような地質環境の粘土を使用しているかが明らかになり,鉱物組成から土器の生産領域が推察される。また,土器胎土に混入された砂の粘土に対する混合比は土器を製作した集団に特有の混合比であり,同じ集団が製作した土器の砂の混合比はほとんど同じものである。この集団に特有の混合比を比較することで製作集団を判別することができる。
    しかし,焼成温度が高温領域にある須恵器,陶器,磁器等では熱による鉱物の分解が著しく,鉱物のほとんどは分解してガラスに変質している。X線回折試験では本来の粘土鉱物と造岩鉱物の検出はなく,高温で生成するムライト,クリストバライトと温度による変質が軽微な石英が検出される。この高温領域で生成されるムライトとクリストバライトの検出状況から焼成温度の領域が推察される。
    蛍光X線分析による元素分析では焼成温度が高くても低くても本来の元素は残っており,熱による影響は軽微である(アルカリ元素等の軽元素の一部は熱によって励起発散される傾向があるが,その量はごく少なく,全体の重量%に対する影響は少ない)。
    須恵器,陶器,磁器などの胎土は特有の元素組成を有しており,特有の元素組成は製作された地域の地質を反映するものであり,特有の元素組成に基づいて産地が同定される。
    元素組成だけからではどのような鉱物組成であるかを判断することは難しい。
    しかし,X線回折試験と蛍光X線分析の2種類の分析法を併用することでそれぞれの短所が補われ,焼成ランクが低温領域から高温領域までの胎土のより正確な分析が可能である。
    X線回折試験と蛍光X線分析を使っての分析法とデータの処理法を提案し,それに基づいて大阪府下の代表的な埴輪窯跡の円筒埴輪の分析を行ない,明瞭な産地同定ができ,良好な結果を得た。
  • 遺構の形状・規模・分布の分析
    矢澤 健, 吉村 作治
    オリエント
    2016年 58 巻 2 号 196-210
    発行日: 2016/03/31
    公開日: 2019/04/01
    ジャーナル フリー

    Since most of the Middle Kingdom shaft tombs in Egypt have been thoroughly plundered, until now analyses of cemeteries have relied on the patchy evidence of the remaining objects. However, the subterranean structure of the tombs was usually unaffected by robbery. It is possible to complement the lack of information and obtain an overall view of the cemeteries by analyzing these structures. This paper examines the date, social status of the owner, and orientation of the shaft tombs in Dahshur North.

       This paper classified shaft tombs into six types by form and three groups by size, Small, Middle and Large. Tombs with datable objects were sorted in chronological order, but analysis showed that there is little relationship between type, size and date. In contrast, a marked correlation between size and social status of the owner was observed. The burial equipment of the Middle and Large groups was superior both in quality and quantity to that of the Small group, and the former groups were equipped with objects of the "court-type burial" a style common at the highest social level in royal cemeteries during the late Middle Kingdom. The relation between social difference and tomb size was also demonstrated by the much greater expense of digging the larger shaft tombs.

       As for the orientation, the long axes of the twelfth to early thirteenth dynasty tombs were oriented north-south, while those of the early thirteenth dynasty or later tombs were oriented almost northwest-southeast. It is assumed the difference is because there is a late twelfth dynasty pyramid to the east of Dahshur North, and a mid-thirteenth dynasty pyramid to the northeast. Therefore it is probable that people buried in Dahshur North were closely related to the elite class buried in the royal cemeteries.

  • 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に
    若林 邦彦
    日本考古学
    2001年 8 巻 12 号 35-54
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    弥生時代中~後期の大規模集落については,拠点集落・城砦集落・都市など様々な名称が与えられてきた。特に,大阪府池上曽根遺跡の調査成果を初端とした弥生都市論は注目を集めている。本稿では,大規模集落の実態を分析し,複雑化した集落遺跡に関する新たな位置づけを試みた。
    分析対象地域としては,大阪平野中部を取り上げ,このうち弥生時代中期に連続的に集落遺跡が形成される,河内湖南岸遺跡群,平野川・長瀬川流域遺跡群・河内湖東岸遺跡群の3領域について,各時期の居住域・墓域の平面分布の変化を検討した。その結果,大規模集落・拠点集落と言われてきた領域では,径100~200m程度の平面規模の居住域に方形周溝墓群が付随した構造が複数近接存在し,小規模集落といわれていた部分はそのセットの粗分布域と認識できた。
    この居住域は竪穴住居・建物が20~50棟程度の規模と推測され,単位集団・世帯共同体論で想定された集団の数倍以上となる。本稿では,これを「基礎集団」と仮称した。基礎集団は,小児棺を含む複数埋葬という家族墓的属性をもつ方形周溝墓群形成の母体と推定されることから,血縁関係を結合原理としていたと考えられる。また,この集団は水田域形成の基盤ともみられる。本稿では,基礎集団を,集落占地・耕作・利害調整上の重要な機能を果たす人間集団と位置づけた。
    基礎集団概念にもとづけば大規模集落はその複合体と考えられ,近畿地方平野部において環濠と呼ばれている大溝群も集落全体を囲むものとは考えられない。また,大規模集落内では,近接する基礎集団間関係が複雑化し,それが方形周溝墓群内外にみられる不均等傾向をもたらしたと考えられる。さらに,池上曽根遺跡における既往の分析によれば,近接する各基礎集団間には一定程度の機能分化傾向も読み取れ,大規模集落内外に基礎集団相互の経済的依存関係が醸成されていたことが注目される。また,同様の特徴は西日本における他地域の大規模集落にも認められる。
    以上の特徴を前提とすれば,大規模集落に対し,経済的外部依存率の低い自給的農村としての城砦集落と定義するのは難しい。また,基礎集団が血縁集団的性格をもつことは,都市と定義づけるにはそぐわない居住原理の内在を大規模集落に想定せざるを得ない。このことから,本稿では弥生時代の大規模集落を農村でも都市でもない「複合型集落」という概念でとらえ,社会複雑化のプロセスを考察することを提案する。
  • 吉田 稔
    日本考古学
    2002年 9 巻 13 号 105-112
    発行日: 2002/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    埼玉県北部を東流する荒川が形成する熊谷扇状地末端部には,数多くの遺跡が存在する。弥生時代においても例外ではなく,県立さきたま資料館によって調査が行われた行田市,池上・池守遺跡を始めとして,小敷田遺跡,熊谷横間栗遺跡,前中西遺跡,平戸遺跡などの弥生時代中期の遺跡が点在している。過去十数ヶ次にわたる熊谷市北島遺跡の調査においても弥生時代前期末から後期にかけての小規模な遺構が検出されていた。
    今回,第59回国民体育大会会場施設建設に伴う
    発掘調査
    では,いままでの弥生時代中期の遺跡規模を上回り,広範囲かつ当時の生活様相を示すさまざまの遺構を調査することとなった。
    東流する2本の河川跡に挟まれた自然堤防上に,70軒の住居跡,掘立柱建物跡1棟,土坑が検出された。また,北側の河川跡には取水用の堰が設けられ,堰を起点として,集落を分断する形で南側に向かって水路が開削されていた。水路は,隣接する調査区で検出された水田跡に繋がる状況を把握できた。また,水田跡の大畔に張り付いて出土した土器は,やや新しい様相を示すものの,大畔の方向が集落の方向とほぼ一致することなどから,集落形成期に経営された水田である可能性が高いと考えられる。
    この他に,北側の河川跡と水路を区画すると考えられる溝が検出され,南側の河川跡では,貯木場と考えられる施設が検出された。
    墓坑としては,土壙及び土器棺が検出されたが,注目すべきは住居跡内から土器棺が出土したことである。このような例は,長野県佐久市北西の久保遺跡,埼玉県浦和市東裏遺跡など少数にとどまり当遺跡における特異性としてあげられる。
    埼玉県内では,このような居住領域と生産領域を一体として把握できる遺構の調査事例は初めてである。近年調査された神奈川県小田原市中里遺跡や千葉県君津市常代遺跡などの大規模遺跡の調査事例と同様に,北島遺跡が拠点集落として捉えることが可能かどうか,今後の資料整理の検討課題としたい。
  • 吉本 洋子, 渡辺 誠
    日本考古学
    1999年 6 巻 8 号 51-85
    発行日: 1999/10/09
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    筆者達は1994年刊行の本誌第1号において,人面・土偶装飾付土器のうち主流である深鉢形土器の場合について集成し,分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。その後釣手土器・香爐形土器・注口土器,および関連する器形についても検討し,縄文人の死と再生の観念がさまざまな形をとって表現されていることが明確になってきた。そしてそれらの時期的・地理的分布範囲はすべて深鉢形土器のなかに包括されることが確定的になってきたため,深鉢の分布範囲についての基礎的研究は絶えず検討を加えておく必要性があると考え,その後5年間の増加資料を集成した。
    人面・土偶装飾付土器は,1994年では443例であったが,今回約36%増加し601例となった。しかし北海道西南部から岐阜県までという範囲には変化はみられず,四季の変化のもっとも顕著な落葉広葉樹林帯を背景としていることが確定的になった。その範囲内にあっては,山梨・福島県に増加率が高く,前者は特に最盛期のIV類の中心地であることをよく示している。また後者は隣接地域も含め,従来一般的に意識されている中部地方ばかりが,人面・土偶装飾付深鉢形土器の分布域ではないことを明示している。
    時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,従来断片的であった前期の例が増加したことは,獣面把手から人面把手へ発展したという見方の成立し難いことが明確になった。そしてそのなかには炉内で五徳状に毎日火にかけられていた,機能的にも重要な例も含まれている。逆に後・晩期の例も増加し,弥生時代の人面・土偶装飾付深鉢や壷形土器への連続性も,一段と明らかになってきた。
    機能的には,足形の把手状装飾が新潟・福島県から青森県にかけてみられ,そのうえ福島県ではそれと人面とが同一個体のなかにセットでみられるものも出土し,女神の身体から食べ物が生み出される様子が一段と明確になってきた。
  • 佐藤 由紀男
    日本考古学
    2002年 9 巻 13 号 1-18
    発行日: 2002/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    甕・深鉢形土器などの煮炊き用土器の容量は,煮炊きの目的や内容物に規定される部分が大きい。したがって,その組成の変化は食生活の変化とも密接に関連している。
    本稿では本州北部を対象に,大洞C2期から弥生III期に至る,煮炊き用土器の容量組成を検討した。そして,大洞A期とA'期の間に,10リットル以上の大形・超大形土器の組成比率の減少という変化を確認した。大洞A'期は,これらの地域で遠賀川系土器の影響を受けた『類遠賀川系土器』が出現する時期である。また,大形・超大形土器の比率が低い組成は,遠賀川系土器の特徴の一つであることから,こうした変化は『遠賀川系文化』の影響と判断した。大洞A'期の類遠賀川系土器の分布は限られているが,容量組成の変化には地域差が確認されないことから,『遠賀川系文化』の影響は,当該域全域に及ぶものと推定された。
    また,2リットル未満の小形土器の比率は各時期とも高く,大きくは変化しないことも確認した。同時期の列島内の他地域と比較すれば,小形土器の比率の高い点は,当該域の際立った特徴であることも判明した。
  • 都市鎌倉を中心として
    鈴木 弘太
    日本考古学
    2006年 13 巻 21 号 81-101
    発行日: 2006/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    「竪穴建物」とは,地表面から竪穴を掘り込み,その地下空間を利用する半地下式の建物である。
    規模は一辺2mから6m程度が過半であるが,中には10mを越す報告もある。その多くは12世紀後半以降に求められ,中世を通じた報告例がある。また日本列島には縄文時代以来,竪穴住居があるが,弥生,古墳時代を経て西日本で7世紀,東日本では10世紀ごろに断絶する。そのため中世の竪穴建物とは直接の系譜関係は想定しづらい。ただ,少数ではあるが北東北地方や博多に11世紀代の報告例もあり,竪穴住居との系譜関係は今後,検討すべき点である。
    竪穴建物は,1982年に鎌倉遺跡群で報告されてから広く認知され,その後,列島規模の広範囲で報告される。各地の竪穴建物の構造は,柱によって上屋を支える構造,いわゆる柱穴建ちが主体であるが,それに対して鎌倉遺跡群は,竪穴底面に据えられた土台角材から隅柱や中柱を組み上げ,それにより内部空間を確保する木組構造が主体をなす。
    本稿ではこの両者の相違を明確にするために,基本構造により分類をおこなう。これにより,鎌倉遺跡群の建物構造は,列島の中で特徴的な構造である可能性を提示した。そして,より詳細に構造を検討した上で,以下に続く,年代や建て替え状況から都市の土地利用についての考察を行なう。
    鎌倉における竪穴建物の年代について,現在まで直接的な研究は見当たらない。筆者は遺構(竪穴建物)の重複から新旧関係を見出し,各遺構に含まれる最新の遺物を下限年代とした上で,重複する遺構群内で変遷を追った。その結果,鎌倉においては13世紀第2四半期ごろに出現し,下限は15世紀代と推測した。
    その重複関係に着目すると,竪穴建物は建て替えに際しても大きく場所を変えず,同一の地点で繰り返し構築される。その限界が「区画」を表現するものと考えた。鎌倉の「海浜地区」は区画が存在しないと考えられていたが,検討の結果,可能性を示した。この区画こそが中世都市における土地規制の徴証であり,都市制度下にあったものと推察され,今後は都市論あるいは都市構造論へ発展すべき問題点だと考えられる。
  • 清水 信行
    日本考古学
    1998年 5 巻 5 号 19-46
    発行日: 1998/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    筆者は,韓国国立忠南大学校付属博物館に所蔵されている論山郡開泰寺出土の瓦を観察する機会を得ることができた。本稿は,その観察結果から知ることができた瓦の製作技法の特徴やその年代を明らかにし,そこから考えられる開泰寺の再建年代について考察することを目的としたものである。
    対象とした資料は,凸面に銘文をもつ平瓦に限った。それらの瓦には,紀年銘のあるものが含まれており,製作年代が明らかにできるからである。まず,開泰寺出土のそれぞれの銘文平瓦の色調,胎土,焼成,凸面の叩き文様と調整法などの製作技法の特徴について明らかにした。
    次に,その存続年代が高麗時代を含むとされるその他の寺院や遺跡から出土した紀年銘のある瓦を資料として取り上げ,開泰寺の瓦と同様に,その観察結果を述べた。
    以上の観察結果をもとに,開泰寺出土の銘文瓦をA類~D類に分類し,表を作成した。この分類をもとに,開泰寺以外の寺院・遺跡からの出土瓦も分類し,それらの瓦がA類,E類,F類に分類されることを述べた。それと同時に,製作年代が明らかな紀年銘を持つ瓦について,同じ年代の紀年銘を持つ瓦は出土遺跡が異なっても同じ製作技法で作られていることを明らかにした。また,銘文を「左の行から縦書きで右の行へ」表わす方法は,瓦の年代を示す指標となり得ることを指摘した。このような結果をもとに,開泰寺出土のそれぞれの銘文瓦の年代について考察した。
    最後に,開泰寺出土の銘文瓦の年代とその出土状況及び『高麗史』に出てくる記事をもとに,「金堂」第1期建物が廃棄されたあと,第2期建物が再建された時期について考察した。そしてさらに,『高麗史』の記事から推定される第2期建物が焼失した理由と,第3期建物としてそれが再建された時期についても言及した。
  • 日本の活断層発掘調査[21]
    活断層研究
    1988年 1988 巻 5 号 42-49
    発行日: 1988/07/30
    公開日: 2013/03/22
    ジャーナル フリー
  • 高橋 博志
    土木史研究
    1997年 17 巻 345-350
    発行日: 1997/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    福島県郡山市安積町にある荒井猫田遺跡は、平成8年度の
    発掘調査
    で中世前期の道路跡や町屋が発見された。この時期の道路跡の調査例は、地方では例が少ない。ここでは、各調査区の調査結果の報告とともに、道路や町屋がどのような作られ方をしていたか、その盛衰はどういったものであったかを考えてみたい。
  • 森 勇一
    名古屋地学
    2018年 80 巻 38-39
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/03/05
    ジャーナル オープンアクセス
  • 田中 哲雄
    ランドスケープ研究
    1997年 61 巻 3 号 212-217
    発行日: 1998/01/30
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • ——液状化履歴地点における液状化可能性の検討から——
    山村 紀香, 加納 靖之
    地震 第2輯
    2020年 73 巻 97-110
    発行日: 2020/10/07
    公開日: 2020/12/01
    ジャーナル フリー
    電子付録

    The Chubu and the Kinki regions in central Japan were widely and seriously damaged by the 1586 Tensho earthquake. The detail of this event is not well understood because reliable descriptions in historical documents for Tensho era are few. Previous researches have provided wide variety of arguments about location of source fault and magnitude of this event, which yield several differing interpretations. In this study, we focus on ground liquefaction which has been not intensively investigated yet for this event. The four areas under consideration involve liquefaction sites discovered in the ruins or inferred from the reliable descriptions. These are the Tonami Plain, Toyama Plain, Nobi Plain and north-east coast of Lake Biwa. We attempt to estimate source fault of this event by evaluating the possibility of liquefaction to seismic ground motion assuming hypothetical source faults. Hypothetical source faults are along the Shokawa fault group, southern part of the Atera fault group and the Yoro-Kuwana-Yokkaichi faults. The possibility of liquefaction is evaluated by PL value which is calculated using predicted seismic intensity and borehole data (including N-value and soil data). Predicted seismic intensity is calculated using Estimation Tools for Earthquake Ground Motion by empirical attenuation relations of J-SHIS. Borehole data from 296 boring sites in public database is used. As a result, PL value is large in all these areas in case of occurrence a single earthquake of Mj 7.9 on the Shokawa fault group. It means that the event likely cause liquefaction and can explain liquefaction in all these areas.

  • 津金 達郎, 野尻湖
    発掘調査
    日本地質学会学術大会講演要旨
    1994年 1994 巻
    発行日: 1994/09/20
    公開日: 2017/08/24
    会議録・要旨集 フリー
  • 吉本 洋子, 渡辺 誠
    日本考古学
    2005年 12 巻 19 号 73-94
    発行日: 2005/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    筆者達は1994年刊行の本誌第1号,および1999年の第8号において,人面・土偶装飾付深鉢形土器について集成と追補を行い,分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。さらに今回追補2としてその後の増加資料を検討した。
    人面・土偶装飾付深鉢形土器は,1994年までは443例であったが,1999年では601例となり,今回では750例となつた。平均して毎年約30例ずつ増加しているのであるが,1999年と今回の内容を検討すると,増加傾向には大きな変化はみられず,基礎的研究は終了できるようになったと考えられる。分布においては北海道西南部から岐阜県までという範囲に変化はみられないが,その間の秋田県・富山県などの空白地帯が埋まり,落葉広葉樹林帯の分布と一致していることが一段と明確になった。
    時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,前期の例が増加している。後氷期の温暖化が進み,日本列島の現状の森林帯が回復した時期もまた縄文前期である。四季の移り変わりのもっとも顕著な落葉広葉樹林帯と,人面・土偶装飾付土器の分布が一致することは,その機能を考える上できわめて重要である。冬期に弱まった自然の力の回復を,死の代償として豊かさを求める女神像に重ね合わせる,縄文宗教の形成を強く示唆している。基礎的研究の上にこれらの研究を本格化させる段階に入ったと言えるであろう。
  • 整備後の現状と問題点
    高瀬 要一
    日本庭園学会誌
    2007年 2007 巻 16 号 3-11
    発行日: 2007/03/31
    公開日: 2011/05/20
    ジャーナル フリー
  • 紺谷 吉弘
    地学教育と科学運動
    2005年 48 巻 24-32
    発行日: 2005/03/24
    公開日: 2018/03/29
    ジャーナル フリー
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