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クエリ検索: "皇帝"
11,604件中 1-20の結果を表示しています
  • 辻 正博
    法制史研究
    2005年 2005 巻 55 号 1-49,en3
    発行日: 2006/03/30
    公開日: 2011/04/13
    ジャーナル フリー
    本稿は、魏晉南北朝時代の聽訟と録囚について、擔い手と場所を手がかりにその歴史的意義を考察したものである。
    皇帝
    による聽訟は、魏の明帝が新たな王朝の權威を確立すべく、洛陽の聽訟觀で行なったものを嚆矢とする。兩晉時代になると聽訟觀では專ら録囚が行なわれたが、依然として
    皇帝
    大權を象徴する重要な建物であることに變わりはなかった。南朝では、華林園で
    皇帝
    が聽訟を行なうことが劉宋初期から定例化していた。頻繁に聽訟を行なった
    皇帝
    には、いずれも帝權の強化を指向した點で共通していた。劉宋末から南齊にかけて、
    皇帝
    による聽訟の場は中堂・閲武堂に移ったが、これも君權の確立・強化を目指した結果であった。梁の武帝は漢代的な司法のあり方の復活を企てる傍ら、録囚を制度化し、法官や近臣に委ねようと試みた。一方、北魏では當初、漢人官僚が聽訟の實務一切を委ねられたが、洛陽遷都後は
    皇帝
    自らが冤訟を受理・裁決するようになった。南朝と對峙する中で、大權を握る
    皇帝
    の姿を誇示する必要が生まれたのであろう。聽訟のあり方は、北周から隋にかけて大きく變貌した。
    皇帝
    は宮城で聽政に勤め、聽訟もそこで行なわれたのである。北朝の録囚は、災異説により旱魃對策として行なわれた。この背景には漢化政策の進行がある。北周以後、録囚と旱魃の關連は希薄になり、隋では録囚が定例化された。
    皇帝
    による録囚は、大理寺からの報告に應じて聽政の場でなされた。
  • 武后の君主権と封禅
    笠松 哲
    洛北史学
    2012年 14 巻 99-119
    発行日: 2012/06/02
    公開日: 2024/04/01
    ジャーナル フリー
    武后は唐王朝に代わって周王朝を創業し、自らが中国史上唯一の女性
    皇帝
    となった。即位した武后はまもなく、創業の君主が行うとされる封禅の儀礼を執 行している。先例である高宗の封禅は、
    皇帝
    が周辺諸族との間に君臣関係を締約し、自らが統治する「天下」の秩序を形成する会同儀礼として行われた。これ に対し、武后は封禅に際して、仏教に由来する「金輪王」の尊号を帯びていた。金輪王とは、仏教にあって人間世界と異世界を合わせた全世界「四天下」を統 治する最上位の君主である。『大雲経疏』には、四天下のうち一天下が中国
    皇帝
    の統治する天下であると説明していた。そして、中国
    皇帝
    が執行する会同儀礼としての封禅を、金輪王が四天下に化迹する儀礼に見立てることで、武后の君主権を成立させたのである。これは、中国
    皇帝
    を包摂する金輪王となることで、女性
    皇帝
    としての正当性を獲得するためであった。
  • 藤田 伸
    デザイン学研究
    2005年 51 巻 5 号 17-26
    発行日: 2005/01/31
    公開日: 2017/07/19
    ジャーナル フリー
    本研究は、科学者ペン口ーズが発見したペン口ーズ・パターンを題材に、パターン・デザインのあらたな展開を模索したものである。本研究ではペン口ーズが提示した以外の組み合わせ条件に焦点をあてた。その際、まずは組み合わせ条件の全体像を把握し、分類化をこころみた。ペン口ーズ・パターンは"裏返しなし"が条件になっているが、本研究では"裏返しあり"の場合の組み合わせ条件も探ってみた。その結果、いくつかのユニークな組み合わせ条件を提示することができた。なかには"裏返しあり"でもペン口ーズ・パターンが成立する組み合わせ条件も含まれる。また前縞ではM.C.エッシャーが制作したエッシャー・パターンへの図形変換方法および作例を提示したが、本縞においても引き続きエッシャー・パターンへの図形変換をこころみた。本研究を通して、同テーマでさらなる研究が必要なことが確認できた。
  • 目黒 杏子
    洛北史学
    2017年 19 巻 42-65
    発行日: 2017/06/03
    公開日: 2023/07/21
    ジャーナル フリー
    酎祭は漢代の
    皇帝
    が毎年八月に宗廟で挙行し、諸侯王と列侯(諸侯)が参列した儀礼である。本稿では酎祭の内容などの概要を把握するとともに、前漢前半期におけるその政治的意義と変遷とを考察する。酎祭は漢王朝創立期に秦制を引き継いで策定された。文帝期に諸侯が「酎金」を献上し「助祭」する規定が設けられて、
    皇帝
    の威信を帯びた黄金を媒介として、祭儀の挙行を通じて
    皇帝
    と諸侯との政治秩序を更新する儀礼となった。この政治秩序は、先秦時代の天子と「諸侯」のそれの延長に位置づけられる。景帝期に高祖と文帝の廟を尊んでその酎祭を
    皇帝
    親祭とし、諸侯の使者の参列を義務化したことで、二廟の酎祭の大祭としての威容が整った。また高級官僚の子弟を舞人とする
    皇帝
    の功績をかたどる舞楽の演奏が加わり、漢王朝の記憶を伝承し帰属意識を醸成する場となった。武帝期に列侯層の構成が変化し、周辺諸族との関係も変わる中で、酎祭も改訂されたと考えられる。
  • 今村 智也
    照明学会誌
    1999年 83 巻 12 号 890-894
    発行日: 1999/12/01
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • 前漢末における郊祀の変化
    目黒 杏子
    洛北史学
    2006年 8 巻 85-103
    発行日: 2006/06/03
    公開日: 2024/04/01
    ジャーナル フリー
    本稿では、前漢から後漢に至る間の郊祀制度変遷の具体的様相を解明し、それが示す
    皇帝
    権力構造の変化を探る研究の一環として、王莽が創立した「元始儀」の復元を行い、前漢郊祀と比較、検証する。王莽の「元始儀」は、後漢光武帝に継承され、以後の諸王朝における郊祀制の基礎となるが、史料的な問題のために実態解明が遅れていた。そこでまず、「元始儀」について史料の校訂を行い、現代語訳と復元図を、筆者の解釈として提示した。前漢武帝代 に創設され、郊祀制の中核として代々行われてきた甘泉泰畤の上帝郊祀は、都より遠く離れた「世界」を模す祀場において、
    皇帝
    が傍観する中、巫らが降 神を行う儀礼であった。これに対し、成帝期以降、儒家は、「世界」を表現する祀場形態はそのままに、郊祀を天と
    皇帝
    の直接的関係を顕示する儀礼へと改変した。王莽はこの主旨に、経書に基づく理論を加味して独自の郊祀体系「元始儀」を創立した。その祀場は、自然的「世界」の秩序を表すと同時に、そこに
    皇帝
    と官僚からなる「人間」の秩序が重層する構造を持つ。これは、郊祀を、
    皇帝
    が天から授かった秩序を地上に体現する儀礼に位置づける、儒家思想の具象化と考えられる。
  • 西山 滝蔵
    武道学研究
    1981年 13 巻 2 号 96-97
    発行日: 1981/03/10
    公開日: 2012/11/27
    ジャーナル フリー
  • 地学雑誌
    1908年 20 巻 12 号 870
    発行日: 1908/12/15
    公開日: 2010/12/22
    ジャーナル フリー
  • 横井 克信
    印度學佛教學研究
    2001年 49 巻 2 号 757-759
    発行日: 2001/03/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 杉村 貞臣
    オリエント
    1988年 31 巻 2 号 75-91
    発行日: 1988年
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
    how the five emperors in the Dynasty of Lascaris (1204-1261) succeeded to the throne is discussed here. The succession by the blood relation as Theodoros I, Theodoros II, John IV, and the succession by the marriage as John III, continued the family line of Lascaris. But a usurpation by Michael VIII has gone to ruin the family of Lascaris. The patriarch and the aristcracy in Nicaea supported the family line of the dynasty.
  • ドイツ・ルネサンス城館ヨハニスブルク城の事例
    梅村 尚幸
    建築史学
    2016年 67 巻 63-89
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/02/15
    ジャーナル フリー
  • 中国の場合と日本の場合
    川勝 賢亮
    佛教文化学会紀要
    2005年 2005 巻 14 号 33-51
    発行日: 2005/11/03
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
  • 肇祖廟と皇帝陵廟及び世廟の家具配置比較
    *赤松 明, 橋本 俊, 白井 裕泰, 中川 武
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2009年 56 巻 E10
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/16
    会議録・要旨集 フリー
    2005年度から,ものつくり大学の海外学術調査(基盤A)として研究課題「阮朝・太廟・隆徳殿の修復計画-ヴィエトナムの文化遺産(建造物)の保存に関する技術移転の確立と国際協力」を実施している。その調査の一環として肇祖廟に配置されている家具について調査を行った。 肇祖廟の家具は,太祖廟の修復のために一時的に奉られているものであり,これらの家具配置が本来の配置であるか否かが問われている。そこで,代表的な
    皇帝
    陵における家具配置を調査し肇祖廟の家具配置と比較検討した。
    皇帝
    陵廟及び世廟における主な家具の配置は,位牌壇・ベッド・机(ベッドの上におかれた小机)・内祭壇・祭壇の順である。一方,肇祖廟においては,位牌壇の前にベッドが配置されておらず,玉座の次に机(ベッドの上に置かれた小机)が配置されている。さらに,内祭壇と祭壇の間に玉座が配されている。阮朝において,最も体制が安定し文化が華やぎ,戦禍を免れた明命帝期~嗣徳帝期の
    皇帝
    陵廟の家具配置が,本来の様式であると考えれば,本研究の対象である,肇祖廟における家具配置は特異な家具配置であることが認められた。
  • 地学雑誌
    1915年 27 巻 7 号 626
    発行日: 1915/07/15
    公開日: 2010/12/22
    ジャーナル フリー
  • 畢 鮮栄, 渡辺 貴介, 十代田 朗
    都市計画論文集
    1993年 28 巻 205-210
    発行日: 1993/10/25
    公開日: 2019/09/01
    ジャーナル フリー

    THIS PAPER TRIES TO ELUCIDATE THE DEVELOPMENT PROCESS OF IMPERIAL VILLA OF “BISHU SHANZHUANG” AND THE NEARBY CITY OF “CHENG DE” AND THE RESORT STYLE OF THE EMPIRE IN QING DYNASTY, BASED ON SEVERAL HISTORICAL RECORDS OF QING DYNASTY AND RELATED MAPS AND PLANS THE ANALYSES WAS CONDUCTED. THE FINDINGS ARE AS FOLLOWS:1)SEVERAL REASONS OF CONSTRUCTION OF THE VILLA ARE DEROIVED AS CONILATION OF MINOLITY TRIBES, NEEDS FOR THE CHANGE OF AIR. ESCAPE FROM INFECTIONS, ETC. 2)EVIDENCE OF REFLETION OF IMPERIAL CONCEPTS ON THE LOCATION AND DESIGN OF THE VILLA IS REVEALED. 3)VALIOUS ACTIVITIES ENJOYED BY EMPIRES ARE DERIVED AND CLARIFIED. 4)THE PROCESS ALONG WHICH “CHENG DE” CITY HAS DEVELOPED IS CLARIFIED AS A TYPICAL PROCESS OF RESORT CITY.

  • 谷一 尚
    オリエント
    1997年 40 巻 2 号 124-137
    発行日: 1997年
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
    During the years 1995-1996, the Yuangzhou Archaeological Excavations in China, funded by Japan Ministry of Education Grant-in-Aid for International Scientific Research, was a Joint Project by Japan and China.
    During 1995, we discovered the Tomb of Shi Daoluo who lived during Tang dynasty, and was buried in 658 A. D. A Byzantine gold coin (Justin II, 565-578 A. D.) was discovered.
    During 1996, the tomb of the Northern Zhou dynasty prime minister Tian Hong was discovered, who died and was buried in 575 A. D.
    Five Byzantine gold coins: one Leo I, the Thracian (457-474 A. D.) coin, one Justin I (518-527 A. D.) coin, two Justinian I, co-regent (527 A. D.) coins, and one Justinian I, the Great (527-565 A. D.) coin were found.
    This thesis 1) describes in detail and lists Byzantine gold coins excavated in China from 1914 to the present, including the coins from the Tomb of Shi Daoluo and from the Tomb of Tian Hong, 2) considers the background of cultural and economic relations between China and the West.
  • 和田 廣
    オリエント
    1980年 23 巻 1 号 145-159
    発行日: 1980/09/30
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 石川 博樹
    オリエント
    2006年 49 巻 2 号 182-199
    発行日: 2006年
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
    The Christian kingdom of northern Ethiopia lost almost half of her territory to the Oromo during the second half of the sixteenth century. The Zenahu lä-Galla (History of the Galla) written by Bahrey in 1593 is the most important work on this “Oromo Migration.” In the same period as the Zenahu lä-Galla, the chronicle of Emperor Särsä Dengel (r. 1563-97) was also written. This chronicle is one of the “Royal Chronicles” which constitute the nucleus of the historiography in this region. In the present paper, the author considers a characteristic of the historiography of northern Ethiopia during the second half of the Solomonic Period (1540-1769), by examining why Bahrey had to defend his writing of the Zenahu lä-Galla and why the authors of the “Royal Chronicles” spent so many pages on the emperors' victories.
    The conclusions are as follows.
    1. Bahrey wrote the Zenahu lä-Galla to assert that the Oromo often defeated Christian armies because Oromo social institutions and customs were suited for warfare. On the other hand, the intellectuals thought that historical accounts should be composed in order to praise the deeds of “Good Christians.” There-fore Bahrey justified his writing about the history of the Oromo, who were non-christians, by citing the history of the famous Coptic historian al-Makin, which spent many pages on Muslims' history.
    2. The author of the chronicle of Särsä Dengel criticized al-Makin's work and did not describe in detail the damage caused by the Oromo, because his purpose was to reveal the miracles of God which he found in Emperor's deeds, especially his military successes. The authors of the “Royal Chronicles” during the seventeenth and eighteenth centuries inherited this policy.
    The impact of the “Oromo Migration” produced the Zenahu lä-Galla. However, its impact was transient. Defending Christianity continued to be a characteristic of the historiography of northern Ethiopia throughout the second half of the Solomonic Period.
  • *劉 韻超
    日本映画学会例会報告集
    2014年 3 巻
    発行日: 2014/06/21
    公開日: 2024/03/25
    会議録・要旨集 フリー
  • *赤松 明
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2008年 55 巻 D05
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/06/16
    会議録・要旨集 フリー
    研究課題「グエン朝・太廟・隆徳殿の修復計画―ベトナムの文化遺産(建造物)の保存に関する技術移転の確立と国際協力」を実施している。その調査の一環として,グエン朝家具の実測調査を行なったのでその結果を報告する。王宮内の南東部,太廟垣内に位置する太祖廟および肇祖廟およびの家具を調査した。肇祖廟には歴代の
    皇帝
    の霊が奉られ,その調度品の配置は,廟の奥から祭壇・玉座・机・ベッド・供物台・玉座・供物台の順に配置されている。祭壇や玉座には,
    皇帝
    の権威を象徴すべく,多くの極めて精巧で緻密なレリーフ (5本爪の龍)や象嵌・螺鈿が施されている。今回の調査で一つの机の接合部の詳細を実測し復元した。机の甲板の高さは,立位の姿勢で礼拝するため比較的高い寸法(W1150,D600,H950)であり,祭壇置きや供物台など,さまざまな用途で使用されていた。今回の調査を通して,グエン朝期に製作された家具は,中国の影響を受け,
    皇帝
    の玉座に見られる精巧な装飾はその時代の最先端の技術が駆使されたと考えられる。
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