本論は,大正12年10月に
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で開催された「全県図画研究会」が,「自由画教育論」の受容から「自由画方法」の追究に
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図画教育が向かいながらも,
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自由画教育の基盤だった「芸術教育」や「青年教育者同志会」の活動が退潮を迎えるという,微妙な時期に実施されたことを,以下の2点などから確認した。1.『秋田魁新報』が大正8年12月に
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女子師範学校教諭三沢佐助の「情意教育としての画」を,大正9年4月には日本画家平福百穂の「展覧会と秋田の出品」を掲載した時期から,
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では山本鼎の「自由画教育論」を受容,普及しようとする風潮が大勢を占めた。そして,大正12年までには「自由画方法」を追究する様々な取り組みがあった2.三沢佐助や,「芸術教育」を推進した
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師範学校附属第一小学校主事の赤井米吉は,「自由画方法」を研究及び実践できる存在だったが,早い段階で
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を去った。さらに,「青年教育者同志会」の主な幹部が,大正12年3月までに秋田市外へ転任となった。
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