議会
共和政と称されるフランス第三共和政に関する
議会
史研究は、国会のみを対象としてきた。対して、本稿はブーシュ=デュ=ローヌ県を中心に、
議会共和政への地方議会
の位置づけを試みた。
県
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に関する1871年8月10日法(1871年法)は、その行政上の権限を増加させた。しかし、当時の議員たちは県
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を「政治的
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」でなく「行政機関」としてとらえていたため、県
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による「政治的請願」は保守共和派政府を中心に厳格に禁じられた。実際に、1870年代の県
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は、立法者の意図通り「行政機関」として知事などから位置づけられ、また自らもそうふるまった。
しかし、状況は
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共和政の確立(1870年代末)によって変わる。それまでと異なり、県
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は「世論」の代表として自らを「政治的
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」と認識し、非合法な「政治的請願」や非公式な政治的意志の表明を行うようになった。そもそも政治と行政の境界は曖昧であり、県
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の「政治的
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」化の素地は1871年法に内在していた。
対して中央は、県
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のこの動きを公式に認めない一方で、より厳格に禁止もしなかった。その前提には、県
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が中央にとって「世論」形成・代表の場として機能していたことがある。とくに国会議員と地方
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議員を兼任していた議員は、自ら地方
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で「世論」の形成に貢献していた。つまり、県
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の「政治的
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」化を公認することで、中央にとっての政敵による「世論」を考慮せざるをえなくなり、他方でより厳格に禁止すると、自らの政治的協力者を排除してしまう。そのため、共和派政府と
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多数派は、その政治的構成に応じて県
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に対して両義的にふるまえる現状を維持したのである。
こうして、県
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は「世論」を形成・代表する「政治的
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」として
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共和政にくみこまれていった。
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共和政において、中央と地方のあいだに、このような非合法あるいは非公式な政治空間が徐々に形成されていったのである。
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