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クエリ検索: "郡道"
315件中 1-20の結果を表示しています
  • 造園雑誌
    1975年 39 巻 1 号 e1b
    発行日: 1975年
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • 造園雑誌
    1975年 39 巻 1 号 e1a
    発行日: 1975年
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • 和田 一範
    水利科学
    2016年 60 巻 5 号 47-82
    発行日: 2016/12/01
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー
  • ──それぞれの見た有吉堤騒動──(その1 )
    和田 一範
    水利科学
    2021年 64 巻 6 号 62-104
    発行日: 2021/02/01
    公開日: 2022/05/09
    ジャーナル フリー

     多摩川左右岸築堤争いの大騒動,有吉堤騒動においては,多摩川両岸の地域住民,各村役場,各郡役所,県,府,両議会議員,帝国議会議員,内務省など,様々な当事者たちが,それぞれの役割の中で大奮闘をしている。これら立場を超えた様々な当事者たちが,それぞれの視点から一連の顛末をどのように見ていたか,そしてどのような行動をとったかは,防災における自助・共助・公助の連携を考える上で,重要な位置づけを持つ。

    神奈川県立公文書館所蔵の飯田家文書(ID2200710116多摩川筋盛土工事行政訴訟,ID2200710134同名)には,これら当事者たちが,自らの視点で,一連の騒動を経緯として記した,生々しい記述がある。

    大正6 年(1917年)8月21日付で,神奈川県土木課の河川管理吏員から横浜区裁判所検事局に提出された,五十間盛土事件の説明文書には,「多摩川筋御幸村築堤沿革書」が添付され,アミガサ事件(大正3年〈1914年〉9月16日)の発生から,有吉堤建設の騒動を経て,これが正式な河川堤防として内務省の認可を受け,大正5年(1916年)10月19日に残事業が竣工するまでの経緯を説明している。ここに,多摩川を管理し,地域の防災をつかさどる,神奈川県の行政官としての見解を見てとることができる。

    同じく大正6 年(1917年)9月4日付で,御幸村有志秋元喜四郎氏から,横浜区裁判所検事局に宛てた「上申書」には,地元住民の立場から,アミガサ事件の発生から有吉堤建設の騒動を,詳細に説明するとともに,有吉堤騒動の決着に際しての平間の渡し下流150間の旧堤(突堤)撤去の扱いと,これを不服として,その後,水防用資材としての土の仮置きと称して五十間の盛土を行った経緯を述べている。ここに,一連の騒動に関しての,地元住民としての見解を見てとることができる。

    さらに,国立国会図書館所蔵の「大正五年公文雑纂,多摩川築堤問題顚末」は,内務省土木局の担当技師の立場から,一連の騒動の顛末を公文書のかたちでとりまとめたもので,いわば河川行政の所管官庁としての公式見解が述べられている。

    本稿では,これら3件の文書を,活字にして紹介するとともに,比較対比をすることによって,有吉堤騒動における,各者の連携・協働とすれ違いについて分析をしたい。防災の主役,自助・共助と公助との連携,さらには公助間の連携にかかる,多くの教訓がそこにはある。

    アミガサ事件と有吉堤,多摩川直轄改修への道の一連の騒動にみる,自助・共助・公助の連携・協働とすれ違いの中には,特に,自助・共助と,公助との連携・協働が重要であり,あわせて,地域住民に寄り添った公助間の連携のあり方が重要であるという点において,現代の防災に与える大きな教訓が見いだせる。

  • 小金井 良精
    人類學雜誌
    1917年 32 巻 12 号 361-371
    発行日: 1917年
    公開日: 2010/06/28
    ジャーナル フリー
  • 和田 一範
    水利科学
    2019年 63 巻 4 号 56-102
    発行日: 2019/10/01
    公開日: 2021/02/01
    ジャーナル フリー

     明治29年(1896年)制定の旧河川法の手続きにあたって,それ以前にすでに大連続堤が整備済みであった東京府側が,これを了解しなかったために,内務省の河川堤防としての建設の認可が下りなかったものである。大騒動の後の内務省の最終調停は,東京側の堤防よりも三尺(約90cm)低くするという条件で,神奈川県側の新堤建設を認めるものであった。 一方,平間の渡し下流にはそもそも150間(約270m)の大きな突堤が,神奈川県側から東京府側に突き出すように整備されていて,長年有効に機能していた。この突堤は,背後にある神奈川県橘樹

    郡道
    兼用の伊勢浦堤と食い違うように配され,二つをあわせて霞堤としても機能していた。 神奈川県側,御幸村のこの地先には大変有効であったこの突堤は,対岸東京府側矢口村には,洪水流を対岸に向ける,脅威であった。東京府側,矢口堤防に大きな脅威をもたらすこの突堤を,矢口村の地域住民は相当,嫌っていた。 有吉堤の騒動の当初,神奈川県側は,この突堤と伊勢浦堤をつなげて,さらに上流側無堤地区の新堤につなげるという工事を始めたので,対岸の住民はたまらない。結局,この突堤の扱いは,内務省,東京府,神奈川県の三者調停の中で,最後までもめる最大の懸案事項となった。 このたび神奈川県立公文書館所蔵の飯田家文書(ID2200710116,ID2200710134)において,その後の顚末の全ぼうが明確になる新たな資料を見いだしたので,活字にして紹介するとともに,防災にかかる教訓として分析をしてみたい。それは,有吉堤の大騒動の結着に続く,次の大きな幕のドラマであり,さらには多摩川直轄改修への道につながる,橘樹郡の連携の復活劇である。 防災の基本である,防災の主役,自助・共助と,公助との連携の教訓の,歴史的なモデルがここに見いだされる。

  • 和田 一範
    水利科学
    2016年 60 巻 1 号 53-68
    発行日: 2016/04/01
    公開日: 2017/05/24
    ジャーナル フリー
  • 岡村 勝司, 内山 卓太郎, 遠藤 暢彦
    日本建築学会計画系論文集
    1995年 60 巻 472 号 133-139
    発行日: 1995/06/30
    公開日: 2017/01/27
    ジャーナル フリー
    People provide their community facilities taking charge of a portion of works between public and private sectors. Nowadays, it doesn't go forward easily, because they depend on public sector for most of its adjustments. Therefore it is investigated that the importance of people's participation. As a result of this background, this paper takes note of village community "Nozawa-gumi," that is formed by the central part of Nozawa-Onsen Village in Nagano Prefecture, and this village community works very useful for the adjustment of local living environment. This paper makes clear about the road constructions from 1888 to 1944 and the functions of "Nozawa-gumi" between inhabitants and village community.
  • 小林 里瑳, 羽藤 英二
    都市計画論文集
    2019年 54 巻 3 号 1245-1252
    発行日: 2019/10/25
    公開日: 2019/11/06
    ジャーナル オープンアクセス

    本研究では,近代地方都市における界隈形成のメカニズム解明に向けて,土地所有形態選択問題として統計的モデルを用いた全く新たな都市形成史分析手法の提案を試みた.モデル構築において,所有筆=土地とその所有形態の同時選択確率を記述可能なCNL型の離散選択モデルを提案し,所有形態の選択に関して地主の態度の異質性を仮定した潜在クラスモデルを導入した.パラメータ推定には,隠れ変数を含む選択確率の対数尤度関数最大化問題の求解に適していることから、機械学習の代表的な手法の一つであるEMアルゴリズムを用いた.道後温泉本館周辺を対象に,旧土地台帳と付属図という近代史料をモデル推定可能な形式に変換する方法提案を行い,集積や継承,撤退といった近代地方都市の土地所有の変容の実態解析が可能なデータベース構築に成功した.さらに,非集計分析と提案したモデルを用いてパラメータ推定を行うことで,近代地方都市の地主の土地所有形態の選択に異質性があり,時間の経過とともに地租や立地条件といった要因が土地所有形態の選択に及ぼす影響が大きく変容していることを統計的に示すことができた.

  • 池田 成彬
    石油技術協会誌
    1939年 7 巻 2 号 228-236
    発行日: 1939/03/30
    公開日: 2009/01/07
    ジャーナル フリー
  • ──多摩川築堤期成同盟會の奮闘──
    和田 一範
    水利科学
    2019年 63 巻 1 号 1-52
    発行日: 2019/04/01
    公開日: 2020/06/05
    ジャーナル フリー

    アミガサ事件(大正3年⟨1914年⟩9月16日)の三日後の9月19日,橘樹郡の関係11ケ町村のメンバーが川崎町の橘樹郡役所に集まり,9月29日,「多摩川築堤期成同盟會」が正式に結成された。この期成同盟会は,これまでの陳情が県知事宛であったのに対し,多摩川改修のキーパーソンが内務大臣であることを理解するや,早速内部大臣宛の多摩川新堤塘築造陳情書をまとめあげ,10月29日,神奈川県選出の小泉,井上代議士とともに内務省を訪問,下岡次官に陳情書を手渡し,事情を説明している。アミガサ事件と有吉堤,多摩川直轄改修への道の一連の事件の顚末初期にあたるこの時期,「多摩川築堤期成同盟會」の活動は,多摩川新堤塘築造陳情書をまとめて内務大臣に提出した以降は,川崎市史や多摩川誌をはじめ既往の文献には明確な記述が見られない。 この時期は,アミガサ事件に際して対応した石原健三知事の任期中であり,アミガサ事件から約一年後の大正4年(1915年)9月に有吉忠一知事が赴任をするまでの期間である。期成同盟会のこの時期の活動は,自助・共助の取り組みとして大変重要な意味を持つ。 このたび,神奈川県公文書館に所蔵する武蔵国橘樹郡北綱島村の飯田家文書のなかに,「多摩川築堤期成同盟會報告書」と,「大正4年5月5日付決議録」など,多摩川築堤期成同盟會の奮闘の記録を見いだしたので,ここに活字にして報告する。 防災の主役,自助・共助として,地域住民の様々な代表たちが,多摩川の改修に向けて奮闘する模様が明確に記され,現代の防災に与える大きな教訓が見いだされる。

  • 和田 一範
    水利科学
    2018年 62 巻 2 号 84-126
    発行日: 2018/06/01
    公開日: 2019/07/31
    ジャーナル フリー

    アミガサ事件(大正3年〈1914年〉9月15日)と有吉堤(大正5年〈1916年〉 12月18日竣工)の一連の事件の中で,もっとも大きなクライマックスシーンは,神奈川県庁に押し寄せた数100人の大抗議集団の場面,および内務省からの再三の電報による中止命令と,対岸東京側からの連日100人にも及ぶ監視集団の怒号の中で,道路改良工事に名を借りた堤防工事を進めた地元住民の場面である。その後,内務省の調停を受けてこの一大事件は,一気にハッピーエンドの終息へと向かい,有吉忠一知事の譴責処分と,御幸堤防落成式の場での有吉堤の命名で,一大活劇はいったん幕を閉じる。続いて,2 年後の内務省多摩川直轄事業化に向けて大局は動いてゆく。 これら一連の流れには,時の為政者たちの大いなる政策シナリオがある。 この論文は,既報4件の続報である。これまでの論文で一貫して主張をしているのは,防災の主役,自助・共助と,公助との連携が重要であり,そのモデルが大正年間の多摩川で繰り広げられた,アミガサ事件と有吉堤,そして内務省直轄による抜本改修着工に至る一連の顛末にある,ということである。そこには,現代の防災に通ずる多くの教訓が詰まっている。 重要な視点は,一連の事件が,防災の主役,自助・共助から発信され,公助がこれに呼応するかたちで展開してきたことであり,自助・共助と,公助との連携,鉄の結束が生んだ大きな成果であることである。 そこにはヒーローはいない。 地元住民が自ら発信し,共助としての議員団を動かし,公助である様々な行政機関,村役場,郡役所,県庁の役人,県議会,そして神奈川県知事,さらに多摩川直轄化の流れにおいては,東京府側の議員,東京府の役人,東京府知事,そして内務省の役人たち,内務省次官,譴責処分書の発信者である総理大臣大隈重信までが居並ぶ,一連の連携プレーの勝利なのである。 この一連の大活劇の中で,唯一,悪者として登場して去って行くのは,石原健三知事である。しかしこの人は,そんなに治水に理解のない,災害弱者に冷たい小役人ではない。アミガサ事件直後の現地視察から,県議会での対応などに,アミガサ事件の事後処理のシナリオを垣間見ることができる。 有吉知事においても,良く知られた

    郡道
    改良事業着工と並行して,多摩川の直轄改修事業化に向けて様々な取り組みを展開しており,この人なりの有吉劇場とも言うべき,ダイナミックなシナリオが見える。 本論文は,アミガサ事件の勃発から,有吉堤着工までの空白の期間,内務省直轄化に向けて,どのようなシナリオが描かれ調整がなされたのか,論考を行ったものである。

  • ──それぞれの見た有吉堤騒動──(その2)
    和田 一範
    水利科学
    2021年 65 巻 1 号 73-113
    発行日: 2021/04/01
    公開日: 2022/07/18
    ジャーナル フリー

    多摩川左右岸築堤争いの大騒動,有吉堤騒動においては,多摩川両岸の地域住民,各村役場,各郡役所,県,府,両議会議員,帝国議会議員,内務省など,様々な当事者たちが,それぞれの役割の中で大奮闘をしている。これら立場を超えた様々な当事者たちが,それぞれの視点から一連の顛末をどのように見ていたか,そしてどのような行動をとったかは,防災における自助・共助・公助の連携を考える上で,重要な位置づけを持つ。

    神奈川県立公文書館所蔵の飯田家文書(ID2200710116多摩川筋盛土工事行政訴訟,ID2200710134同名)には,これら当事者たちが,自らの視点で,一連の騒動を経緯として記した,生々しい記述がある。

    大正6 年(1917年)8月21日付で,神奈川県土木課の河川管理吏員から横浜区裁判所検事局に提出された,五十間盛土事件の説明文書には,「多摩川筋御幸村築堤沿革書」が添付され,アミガサ事件(大正3年〈1914年〉9月16日)の発生から,有吉堤建設の騒動を経て,これが正式な河川堤防として内務省の認可を受け,大正5年(1916年)10月19日に残事業が竣工するまでの経緯を説明している。ここに,多摩川を管理し,地域の防災をつかさどる,神奈川県の行政官としての見解を見てとることができる。

    同じく大正6 年(1917年)9月4日付で,御幸村有志秋元喜四郎氏から,横浜区裁判所検事局に宛てた「上申書」には,地元住民の立場から,アミガサ事件の発生から有吉堤建設の騒動を,詳細に説明するとともに,有吉堤騒動の決着に際しての平間の渡し下流150間の旧堤(突堤)撤去の扱いと,これを不服として,その後,水防用資材としての土の仮置きと称して五十間の盛土を行った経緯を述べている。ここに,一連の騒動に関しての,地元住民としての見解を見てとることができる。

    さらに,国立国会図書館所蔵の「大正五年公文雑纂,多摩川築堤問題顚末」は,内務省土木局の担当技師の立場から,一連の騒動の顛末を公文書のかたちでとりまとめたもので,いわば河川行政の所管官庁としての公式見解が述べられている。

    本稿では,これら3件の文書を,活字にして紹介するとともに,比較対比をすることによって,有吉堤騒動における,各者の連携・協働とすれ違いについて分析をしたい。防災の主役,自助・共助と公助との連携,さらには公助間の連携にかかる,多くの教訓がそこにはある。

    アミガサ事件と有吉堤,多摩川直轄改修への道の一連の騒動にみる,自助・共助・公助の連携・協働とすれ違いの中には,特に,自助・共助と,公助との連携・協働が重要であり,あわせて,地域住民に寄り添った公助間の連携のあり方が重要であるという点において,現代の防災に与える大きな教訓が見いだせる。

  • 岩佐 三郎
    石油技術協会誌
    1954年 19 巻 4 号 117-121
    発行日: 1954/07/30
    公開日: 2008/03/27
    ジャーナル フリー
    The first submarine test boring for oil in Japan was executed by the late Tokusaburo Iwasa in the sea 1, 970m off Michikawa-mura, Yuai-gun, Akita Prefecture using a springg pole drilling machine (Kazusa-bori) in the summer of 1952. The drilling was cotinued until it reached the depth of 27m from the sea bottom and abandoned after the machine was hit and damaged by a typhoon of August 19, 1952.
    As noticed from the geological column accompanied in this note, the sediments consist of the Recent sand at the depth of 0-3m intercalating two thin grabel layers, of dark gray mudstone at 3-10m and of another dark-coloured mudstone at 10-27m intercalating layers of tuffaceous sandstone, and showing a distinct alternation of the dark-colored mudstone and tuffaceous sandstone, while in the upper portion of this part (10-27m) the mudstone is much more dominant.
    The fossil foraminifera from the dark-coloured mudstone is characterized by the flood of Goesella schenchi (Table I).
    From the fossil evidence, the sediments except for the uppermost sand and gravel, may be correlated with the Funakawa formation of middle Miocen age typically developed on the adjacent land area.
    A fairly large amount of gas and oil of good quality was found in tuffaceous sandstones within the depth of 25-27m.
    Other gas and oil seeps in the sea are found off Matsugasaki-mura, 12m south of Michikawa. All the stratigraphical work ever done in the adjacent land area leads us to believe that these two localities of gas and oil seeps just mentioned are related to the similar anticlinal structure to the south of Fakasawa in Matsugasaki-mura, which once produced oil.
  • 安藤 哲
    那須大学 都市経済研究年報
    2004年 4 巻 118-139
    発行日: 2004年
    公開日: 2018/04/02
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 和田 一範
    水利科学
    2019年 63 巻 5 号 63-117
    発行日: 2019/12/01
    公開日: 2021/02/23
    ジャーナル フリー

    明治29年(1896年)制定の旧河川法の手続きにあたって,それ以前にすでに大連続堤が整備済みであった東京府側が,これを了解しなかったために,内務省の河川堤防としての建設の認可が下りなかったものである。大騒動の後の内務省の最終調停は,東京側の堤防よりも三尺(約90cm)低くするという条件で,神奈川県側の新堤建設を認めるものであった。 一方,平間の渡し下流にはそもそも150間(約270m)の大きな突堤が,神奈川県側から東京府側に突き出すように整備されていて,長年有効に機能していた。この突堤は,背後にある神奈川県橘樹

    郡道
    兼用の伊勢浦堤と食い違うように配され,二つをあわせて霞堤としても機能していた。 神奈川県側,御幸村のこの地先には大変有効であったこの突堤は,対岸東京府側矢口村には,洪水流を対岸に向ける,脅威であった。東京府側,矢口堤防に大きな脅威をもたらすこの突堤を,矢口村の地域住民は相当,嫌っていた。 有吉堤の騒動の当初,神奈川県側は,この突堤と伊勢浦堤をつなげて,さらに上流側無堤地区の新堤につなげるという工事を始めたので,対岸の住民はたまらない。結局,この突堤の扱いは,内務省,東京府,神奈川県の三者調停の中で,最後までもめる最大の懸案事項となった。 このたび神奈川県立公文書館所蔵の飯田家文書(ID2200710116,ID2200710134)において,その後の顚末の全ぼうが明確になる新たな資料を見いだしたので,活字にして紹介するとともに,防災にかかる教訓として分析をしてみたい。それは,有吉堤の大騒動の結着に続く,次の大きな幕のドラマであり,さらには多摩川直轄改修への道につながる,橘樹郡の連携の復活劇である。 防災の基本である,防災の主役,自助・共助と,公助との連携の教訓の,歴史的なモデルがここに見いだされる。

  • 小佐野 淳
    武道学研究
    1987年 20 巻 2 号 91-92
    発行日: 1987/11/30
    公開日: 2012/11/27
    ジャーナル フリー
  • 高垣 俊廣
    日本体育学会大会号
    1977年 28 巻
    発行日: 1977/10/12
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 丹治 健蔵
    交通史研究
    1988年 19 巻 66-
    発行日: 1988/03/31
    公開日: 2017/10/01
    ジャーナル フリー
  • 伊達 萬里子, 古達 正弘, 行森 光
    日本体育学会大会号
    1989年 40A 巻
    発行日: 1989/09/10
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
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