I はじめに
静岡県は国内最大の茶産地である.茶業経営の大規模化や専門化の傾向は主に平坦地で進行してきた.一方,山間地ではある程度の規模拡大は図られたが,平坦地に比べて生葉の収穫量が少なく,低温のために摘採時期が遅く,市場での価格競争の点で不利であった.そのため,山間地では平坦地との規模格差を補完するために,古くから小規模ながら高級茶生産を展開してきた(山本,1973;増田,1986).近年,荒茶価格の低迷や産地間競争の激化により,平坦地では生産規模の拡大を軸とした産地の再編が図られている(國澤,1999).このような状況下で,山間地の茶産地が,高齢化や労働力不足などの問題を抱えながら,高級茶の生産をどのように継続的に発展させてきたのかに着目する.
本研究では静岡県の山間地に位置する川根地域を対象とする.大井川中流域に位置する川根地域(川根本町と川根町)では茶業が基幹産業であり、農業粗生産額の約90%を茶が占める(図).川根本町を事例地域として考察した.
II 川根本町における茶業の変遷
川根地域の茶業は,わが国の他の茶業地域と同様,明治期から海外への茶の輸出拡大に伴って発展した.川根茶業組合などの指導によって荒茶の製造技術は向上し,生葉の手摘みと機械製茶が一般化した.川根本町(旧中川根町)を例にみると,第二次世界大戦後から1960年代には,生葉の生産に関しては,町の政策によって茶業センターが設立され,在来品種から優良品種「やぶきた」への転換が奨励された.荒茶の製造に関しては,作業効率をあげるために製造機械の導入が進んだ.製茶工場数は,特に荒茶の製造機械を装備した個人経営の工場が増加した.これは生葉の手摘みを主体とした茶生産のため,自園・自製方式が経済的に有利あったためである.1964年には先駆的農家らが全国農業祭天皇杯を茶業界で初めて受賞し,全国に高級ブランド「川根茶」の名を馳せることになった.
1970年代から1980年代には,全国的に機械の改良や大型化が急速に進み,川根地域でもさまざまな補助事業を活用した産地の基盤整備が始まった.生葉の生産については,収穫効率を上げるために,それまでの手摘みに加えて,鋏摘みや摘採機,防霜ファンが普及した.1980年代半ばには,一部の平坦地で大型の摘採機が導入されたが,傾斜部では大型機械の導入が困難であった.また,荒茶の加工では,農家の茶園経営規模が製茶工場の処理能力に制約されるという状況を打開するために,1986年には農協の再製茶工場が設立された.これにより,自園・自製・自販農家の中には,農協へ荒茶を販売する農家が現れた.1980年代末から,コンピュータ制御による大型製茶機械を導入するために,老朽化した製茶工場の統廃合が進んだ.2006年には機械設備の大型化を図るために,川根地域の各町にあった農協の再製茶工場を統合し,JAおおいがわ川根茶業センターが設立された.
III 茶の流通・販売
茶の流通・販売は複雑であるが,現在,川根地域では一般に次のような形態がみられる.生葉売り農家は,地域内の自園・自製農家や加工業者(茶商)に販売や加工委託を行ったり,所属組織の共同製茶工場への持ち込む.自園・自製農家や共同製茶組織は,荒茶を加工業者や川根茶業センター(再製工場)へ販売している.仕上げ茶については,量が限られているので,自園・自製・自販農家や加工業者は,消費地の問屋を通して小売店に販売したり,通信販売によって販路開拓を行ってきた.また,川根茶業流通センターで再製された茶は,地域内の卸売業者を通して消費地の小売店へ販売されている.静岡茶市場を通して県内の茶商やドリンクメーカーへ販売される場合もある.
IV ブランド化への取り組みによる産地の対応
川根地域では,古くから小規模ながら高品質の茶の生産が行われてきた.茶の持つ必需性と嗜好性の二面性が,生産条件の劣悪な山間地でも産地形成を可能にした.自園・自製・自販農家が全国茶品評会などの煎茶部門で数々の優等賞を受賞することにより,高級茶産地としての知名度を誇示し続けてきた.同時に,消費者への通信販売を中心とした販売活動は,希少価値性を生み出し,産地の維持に寄与してきた.また,1980年代からは,自園・自製を主体とした伝統的な経営は,規模拡大などに伴う施設投資の増大により修正を余儀なくされた.高級茶の産地としての伝統を守る一方で,個人の施設投資を軽減したり荒茶生産の効率化を図るために,製茶共同工場の統廃合や農協の再製工場の大型化が進んだ.これは,平坦地の茶業地域と同様,産地の持続的発展に大きな役割を果たしてきた.
図 静岡県における茶栽培面積と農業粗生産額に占める
茶粗生産額の割合(2000年)
(関東農政局
静岡農政事務所
資料より作成)
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