本論稿は、宮沢賢治の「
風の又三郎
」というテクストを、子どもの身体論的視点から読み解き、意味づけんとしたものです。転校生である高田三郎はほんとうに<
風の又三郎
>なのか? そして、その少年はどこからやってきたのか? このテクストは、まずはその問いと謎(=<不在>へのおびえ)を<嘉助>という少年によって意識化するところからはじまります。嘉助という子どもとその感受性によって顕在化するのは、生命存在としての<自然>であり、またそのなかに息づき戯れる子どもたちの身体です。それはまた、かつて人間そのものが生きえたまぎれもない原初(太古)の時間であり世界でもあるのです。しかし人間たちは、たとえば<文明>という装置とその<意味>を身におうことで、永遠にそれら時間から失墜してしまいました。この「
風の又三郎
」の語りは、<不在>の謎と暗闇をたどりながら、まずはその事実と記憶をよみがえらせるのです。<
風の又三郎
>とは、そのような時間の彼方からやってきた使者なのです。——転校生の三郎は「ほんとうに」<
風の又三郎
>なのか? その問いはこの私たちの<世界>とその<日常>を宙吊りにしつつ、また烈しく揺さぶりながら、世界の根源をこそ問い返すのです。
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