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クエリ検索: "高嶺村"
12件中 1-12の結果を表示しています
  • 新垣 真保
    熱帯農業
    1961年 4 巻 4 号 192-196
    発行日: 1961/03/31
    公開日: 2010/03/19
    ジャーナル フリー
  • 辻原 万規彦, 今村 仁美
    日本建築学会計画系論文集
    2017年 82 巻 737 号 1859-1869
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/07/30
    ジャーナル フリー
     The sugar industry was the most important industry in Okinawa Prefecture before World War II. The purpose of this paper is to examine the influence of sugar refinery factories' construction on area development in Okinawa Prefecture. This study focuses on the Nishihara (old/new), Takamine (old/new), Kadena, Tomigusuku and Ginowan sugar refinery factories located on the Okinawa Main Island, the Miyako sugar refinery factory located on the Miyako Island, and the Daito sugar refinery factory located on the South Daito Island, constructed before World War II.
     1) Many old newspaper articles published in Okinawa Prefecture before World War II and other materials allowed us to reorganize their factory's construction processes and to examine the reasons to select each factory's location. These 7 factories' construction periods were divided into two phases; old Nishihara, old Takamine and Kadena factories were constructed around 1910, and other 6 factories were constructed around 1917. It is inferred that the former factory's constructions were caused by "Sugar Industry Development 10-year Plan" released at 1901 and the latter by "Okinawa Prefecture's Industry Development 10-year Plan" released at 1915. In addition, the water sources to cool their machines, the transportation of their sugar refinery machines to each factory site and the transportation of their sugar products from each site affected the selection of each factory's location.
     2) Some aerial photos taken by the U.S. forces, in addition to some documents and other materials, were used to restore the former layouts for new Nishihara, new Takamine, Kadena, Miyako and Daito factories. However, Tomigusuku and Ginowan factories' former layouts were impossible to restore because of a lack of documents and materials since these two factories had operated for only a short time. New Takamine, Miyako and Daito factories were constructed later, divided their sites into their factory area and company-house area by using their geographical features. Three factories located on the Okinawa Main Island had a smaller company-house area than Daito factory located on the South Daito island, an isolated island, since their workers commuted from their surrounding villages at the former 3 factories.
     3) Various materials and documents allowed us to examine the influence of these sugar refinery factories' construction in Okinawa Prefecture before World War II. Three factories; new Nishihara, new Takamine and Kadena, located on the Okinawa Main Island caused their surrounding area development by cooperating with light railways for transporting their sugar products to Naha, capital of Okinawa Prefecture. The Miyako factory caused the whole Miyako Island's industrial development since Miyako Island had few industries at that time and sugar industry was one of the main industries. The Daito factory caused the cultivation of South Daito Island itself since the pioneers for this island had started to cultivate sugar cane.
     In subsequent research, the comparison with the sugar industry in Okinawa Prefecture after World War II and the comparison with the sugar refinery factory and their company houses constructed in Taiwan, Hokkaido and other areas continue.
  • 仲松 弥秀
    人文地理
    1964年 16 巻 2 号 113-138
    発行日: 1964/04/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
    1) 琉球列島内の村落の大多数は,発生以来たいした攪乱を受けることなく存続してきているようである。したがって,この地域の村落を究明することによって,古代日本民族の村落のあり方がうかがわれるのではないかと思う。
    2) 家の配置を見ると,旧家群が村落の背面に位置し,分家群がその前面左右に展開していて,あたかも旧家群が分家群を見守るがごとき態様をなしているのが通例である。
    とくに,祖先神を伴なう村落創始家は一段と最上位の位置に立地している。
    3) ノロ家の位置を見ると,発生当時は必ずしも上位の位置を占めてはいない。それが村落移動の機会をつかまえて,村落創始家と同等,ときにはそれ以上の上位に位置するようになってきた。これはノロの権力が他の旧家よりも祭祀上上位になったことを現わしていると見ることができる。
    4) 家屋の位置について,上位,下位の地位が村落内にあることが知られる。そして旧家,とくに村落創始家と後世ノロ家がこれに加わって,これら両家が最上位の位置に配置され,分家は下位の位置に配置されなければならない。この地位思想・家屋配置思想は村落内の神事と固く結ばれて発生しているようである。すなわち神事管掌家を核として村落共同体が成立していることが知られるであろう。
    5) 琉球各村落には“お嶽”と称されている最高聖杜がある。これは太古その村落の祖先の共同墓地であったものが聖所化したものと筆者は考えている。このお嶽を拝する者は,たとえ血縁は異なっていても,お互いに“同一お嶽の子”という思想によって結ばれるようになる。このような思想によって結ばれている集団とその村落が“マキ”ではなかろうか。
    6) “同一お嶽の子”思想は,やがて,お嶽を管理し,祖先神を伴なっている村落創始家とノロ家を村落の最上位の位置に配置し,次に神事に関係する他の旧家を次位に配置するようになった。すなわち祭祀することによって維持されていく祭政一致の村落社会が成立したのである。
    7) 沖縄本島には現在マキ名を残している村落が相当数存在する。その分布は首里・那覇から遠隔で交通的にも不便な地域と離島であり,この分布によって消失過程を知ることができるとともに,まだ古代マキ社会をうかがうことのできる地域の存在を知ることができる。
    8) 現琉球列島村落は,単一マキから発展したのもあるとは思うが,そのほとんどは複合マキから発展したもののようである。沖縄本島付近の村落にはお嶽・殿が数ヶ所あるのが多く,八重山においては数ハカで1村落が,また奄美大島にはグンギンを2以上もつ村落が多いことで,そのことが知られる。
    9) 複合マキから成立している村落においては,各マキ集団の居住地域が明らかな村落もあるが,多くの場合は混在しているようである。しかし,その場合においても殿と旧家の配置によって,旧マキ地域が見当づけられるものが多い。
    10) 沖縄戦後の移動村落における家屋配置は,旧家・分家の差別がなく,各家思い思いに宅地を選定し,あるいはクジ引で宅地配当が行なわれ,そこには上・下位の地位思想も全く見出せない状態になっている。
    このことは,たとえ村落背後に旧家が配置されている村落においても,すなわち外見上古代的態様を呈している村落においても,その内部社会構造が瓦解しているということを表現していると見ることができる。ただし,このような村落社会の近代化も場所によって異なることは当然であって,奄美大島と八重山にはなお相当古代性がふくまれている村落が比較的多い。
  • 仲松 彌秀
    地理学評論
    1944年 20 巻 2 号 85-109
    発行日: 1944/02/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 仲間 健勇
    日本草地学会九州支部会報
    1981年 11 巻 1-2 号 107-109
    発行日: 1981/01/30
    公開日: 2010/08/25
    ジャーナル フリー
  • 沖縄戦の「慰霊空間の中心」整備をめぐる地域の動向
    上杉 和央
    洛北史学
    2009年 11 巻 47-72
    発行日: 2009年
    公開日: 2024/04/01
    ジャーナル フリー
    近年、歴史研究のなかで、記憶と場所の関係が重要なテーマの一つとなっている。本稿もこの流れをふまえるものであるが、重視するのは集団ごとに場所の記憶は異なっているという点である。何らかの機会にある場所が記憶の場として形成されていく時、その場は複数の集団が関与するコンタクト・ゾーンとなる。そこには、支配的な記憶が単純に敷衍されるのではなく、集団相互間の抵抗・交渉 協調といった営為があり、必ずしも単一の記憶が構成され るわけではない。本稿では、戦後の沖縄県糸満市域を研究対象地とし、沖縄戦戦没者をめぐって琉球政府などが「慰霊空間の中心」を形成していくなかで、地域住民がどのような反応を示し、行動していったのかを具体的に検討することにより、この点を例証していく。
  • 移民会社業務代理人・斡旋業者・募集人に注目して
    花木 宏直
    沖縄地理
    2021年 21 巻 17-32
    発行日: 2021/07/31
    公開日: 2021/08/02
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は近代沖縄において海外移民の斡旋に従事した主体に注目し,外地への移民や国内出稼ぎの斡旋との関わりを踏まえながら,移民・出稼ぎ送出の仕組みの全体像を明らかにすることを目的した.方法として,沖縄県で最初の業務代理人が就任した1903年から,海外渡航手続きが海外移住組合へ一元化された1940年までを対象とし,外交史料館所蔵「移民会社業務関係雑件」や新聞広告,人名録,案内書などをもとに,送出地域で移住希望者に直接移民斡旋を行った業務代理人や斡旋業者,募集人の動向を検討した.その結果,業務代理人と斡旋業者の属性や,海外と外地への移民,国内出稼ぎの斡旋内容の相違に関わらず,沖縄県外出身の寄留商人や,沖縄県出身の海外・外地・本土への在住や移民関連業務の経験者が従事し,沖縄県も政策的な支援を行い,ハワイ移民から呼寄移民,南米移民,南洋移民,国内出稼ぎへと斡旋内容を変化させながら,近代を通じて存立し続けたことが明らかになった.
  • 渡邊 萬壽太郎
    民族學研究
    1940年 6 巻 4 号 498-518
    発行日: 1940/02/10
    公開日: 2018/03/27
    ジャーナル フリー
  • 沖縄県糸満市与座ガーの戦後
    鳥越 皓之
    村落社会研究ジャーナル
    2010年 17 巻 1 号 1-10
    発行日: 2010年
    公開日: 2013/01/26
    ジャーナル フリー
        This paper aims to explore the reasons behind the appearance of unattractive and formalized parks in rural Japanese communities, especially in those wherein community members enthusiastically participate in the planning of the recreation and leisure areas. Traditionally, rural communities in Japan have been characterized by clear boundaries and strong institutions such as Jichikai , having maintained a Gemeinschaft society. In this paper, we analyze the village of Yoza in the southern area of Okinawa’s main island. In 1944, 41% of the villagers were killed during the invasion of the US Army. However, even after losing many community members, these villages have restructured their organizations and have carefully restored and maintained their common buildings and fields during the more than 50 years that have passed since World War II. Usually, parks that have no historical or regional identity and have impersonal atmospheres are planned by the administrative offices of local governments. However, in a few cases, unattractive parks arise even when community members are actively involved in their planning. The Yoza community is such a case. An analysis of the community’s involvement in the planning of park areas revealed two direct reasons, namely, the subsidy system of the central government and the occupation by the Allied Forces, and one fundamental reason, that is, the values of its inhabitants.
  • -その名称と機能-
    下郡 剛, 川満 和, 仲村 真
    沖縄工業高等専門学校紀要
    2023年 17 巻 1-26
    発行日: 2023/06/29
    公開日: 2023/09/29
    研究報告書・技術報告書 フリー
    これまで都市開発等によって失われてゆくばかりであった戦争遺跡を、近年では文化財指定して保存してゆこうとする動きが高まってきている。1990年南風原町の沖縄陸軍病院壕群を嚆矢とするこの動向は、1995年の文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準が改正された後から徐々に加速してゆき、その後の20年間に限定しても、以下の戦争遺跡が次々と文化財指定された。奉安殿・忠魂碑(沖縄市、1997年)、沖縄戦関連宜野座村資料(宜野座村、2001年)、新川・クボウグスク周辺の陣地壕群(うるま市、2004年)、海軍特攻艇格納秘匿壕(宮古島市、2004年)、旧日本軍特攻艇秘匿壕・集団自決地(渡嘉敷村、2005年)、チビチリガマ(読谷村、2008年)、旧登野城尋常高等小学校跡奉安殿(石垣市、2009年)、掩体壕・忠魂碑(読谷村、2009年)、名蔵白水の戦争遺跡群(石垣市、2009年)、旧謝花尋常高等小学校跡奉安殿・本部監視哨跡(本部町、2009年)、161,8高地陣地(中城村、2014年)、旧西原村役場壕(西原町・2015年)、赤松隊本部壕(渡嘉敷村・2015年)などである。  他方で、学術研究の側からは、特に考古学の立場から戦争遺跡の研究が進んでおり、沖縄県立埋蔵文化財センターは、2001年以降、『沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(Ⅰ)南部編』(1)、『同(Ⅱ)中部編』(2)、『同(Ⅲ)北部編』(3)、『同(Ⅳ)本島周辺離島及び那覇市編』(4)、『同(Ⅴ)宮古諸島編』(5)、『同(Ⅵ)八重山諸島編』(6)を6年連続で刊行、2015年には『沖縄県の戦争遺跡 平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書』(以下、『沖縄県の戦争遺跡』)(7)も刊行している。  本稿執筆のまさしく最中、2021年10月30日には、「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」主催の第1回シンポジウムが開催されたが(『琉球新報』2021年10月31日)、これも戦争遺跡の保存と研究の進展の動向をうけてのことであろう。  第32軍は沖縄方面の守備を統括し、その司令部は、沖縄戦開始時、首里城の地下にあった。この地下壕内で沖縄の命運全てが決まっており、住民を無制限に巻き込む結果につながった摩文仁への軍司令部退却も、その作戦室にて決定された。以上を踏まえると、第32軍司令部壕は、沖縄戦の記憶継承の要衝をなす場所と言って良い。むしろ今まで何の進展もなかったことの方が不思議なくらいであるが、戦争遺跡の保存と研究は、今や時代全体の流れなのであろう。  さて、「ありったけの地獄を一つにまとめた」戦場という言葉がある。よく沖縄戦全体を示す言葉として耳にするのだが、正しくは米軍公刊戦史『Okinawa:The last battle』(8)中にて、現浦添市の前田高地の戦闘を表現した米軍兵士の言葉を、外間正四郎氏が『沖縄-日米最後の戦闘-』(9)に翻訳した際のものである。この前田高地の戦闘は2017年に映画『ハクソー・リッジ』として公開されるなどもし、沖縄戦の最激戦地のひとつとされている。  この戦場で戦った日本軍部隊のひとつに歩兵第32連隊の第2大隊があり、同隊は前田高地からの退却に失敗し、高地に閉じ込められたため、南部戦線を戦うことなく終戦を迎えた。結果として、隊長以下生存者が比較的多くおり、豊富な回想録が残されている。また、前田高地を含む浦添城跡一帯は1989年に史跡に指定された。そのため、戦争遺跡の最大の天敵とも言って良い開発等の原状変更ができない地域となっている。  本稿では、前に述べた戦争遺跡保存と研究の動向をうけ、豊富に残される回想録を駆使して、この後数百年も残ってゆくであろう前田高地の陣地壕群の解明に挑みたい。
  • 上杉 和央
    人文地理
    2018年 70 巻 4 号 457-476
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/31
    ジャーナル フリー

    景観に刻まれた過去の記憶をめぐる問題は,歴史と地理の2つの視点を必要とする論点であり,沖縄戦の舞台となった沖縄は,そうした議論の事例地の1つとして相応しいものである。ただし,これまでの研究のほとんどが激戦地のなかでも糸満市域を事例としたものであった。本稿はこうした状況をふまえ,糸満市と同じく激戦地として知られる八重瀬町を事例として選択し,1972年以前に建立された沖縄戦戦没者慰霊碑の建立経緯や変化をたどり,慰霊空間の形成された過程を論じることで,沖縄戦の死と追悼の景観のより多様な状況を提示することを目的とする。八重瀬町域には富盛地区と具志頭地区に慰霊空間が形成されているが,そうした慰霊空間の地理的偏差の生じた背景には,慰霊碑の建立や慰霊空間の整備に関わった地区住民,琉球政府や沖縄遺族連合会,また県外の遺族といった多様な主体の動きが重要であったことを明らかにした。また慰霊空間として明確に選択される場所には歴史的・地理的な要因があったことを指摘した。

  • 中江 淳一
    土地制度史学
    1974年 16 巻 4 号 42-60
    発行日: 1974/07/20
    公開日: 2017/10/30
    ジャーナル フリー
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