抄録
本論文は,自由画教育運動が展開する前の北海道における図画教育現場の状況を明らかにするための手掛かりを得ることを目的とし,大正4年(1915)に札幌師範学校を卒業した久慈治安による論文に基づき,次の四点を確認するものである。
(1)大正6年発表の論文で,久慈は臨画を最終的な目標とする教員の姿勢を問題視している。
(2)大正7年3月発表の論文で,久慈は「教則文」を「甚だ朦朧として明かでなし」とし,『新定画帖』の編纂方針を「大風呂敷」だとしている。
(3)大正10年発表の論文で,久慈は,自由画教育運動前の道内の図画教育現場では「間に合せの授業」が行われていたと評している。
(4)大正11年発表の論文によると,久慈は『新定画帖』発行後の道内の図画教育現場で,教員の熱意の低さと共に,同書の「指導法に対する疑惧」があることを感じていた