日本中東学会年報
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土地を売ること、人を売ること : 比較の視座から見た所有権
岸本 美緒
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2003 年 19 巻 1 号 p. 3-26

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抄録
「共同体的所有から私的所有へ」といった共通の発展論的枠組が解体し、臓器移植や中絶をめぐる新しい問題群が出現するなかで、「所有」をめぐる問題は、一種の混沌感覚を伴いながら、論議の的となっている。本稿は、清代中国を中心として所有をめぐる若干の問題を素描しつつ、歴史上の所有観念の比較の方法を論じようとしたものである。清代においては土地をはじめとして奴婢を含むさまざまなものや人が相当程度自由に売買されており、その所有権のあり方は近代の私的所有権にも比せられる性格をもっていた。しかし、清代における家産に対する家長の権利や「王土王民」観念の存続を検討するとき、その所有主体として想定されているのは、「自らを所有する」自立した人格というよりは、垂直的な人倫の網の目の一環としての人であることに思い至る。ただその網の目が開放的に広がっているため、強固な統制力をもつ共同体などを欠いた開放的で自由な社会とも見えるのである。中国の帝政時代には、民の土地所有の究極的な正当性は、古代の理想政治における王による土地分配に帰せられていた。これは、無主の地の開墾を契機とする前国家的な権利に正当性の基礎を置くロック的な論理と対比されるものである。ここから、「個的権利」を出発点とする論理(「A型」)と「全体」を出発点とする論理(「B型」)とを理念的類型として抽出することができるが、しかし実際には個的確利と全体の福利との緊張関係こそが多様な地域における所有論議をひきおこしていたのであり、これらの型は、その際に用いられる言説的枠組の相違をいうにすぎない。なお、イスラーム社会においては、A型・B型を超越する「神」が論理的な基点となるため、所有権論議のあり方は、中国や近代ヨーロッパとはまた異なる形をとったといえよう。国家的土地所有はしばしば「アジア的専制」の一表現と考えられてきたが、実際には、歴史上「国家的土地所有」に類する観念は、地主権力の抑制、地税の確保、小農民の保護など、さまざまな課題に対応し得る汎用性のある理論として用いられてきた。絶対的な私的所有権が資源に対する他者のアクセスを阻害するものであることを考えるとき、「国家的土地所有」の観念がむしろ「自由」と親和的にとらえられる場合もある。また、臓器や胎児の処分権をめぐって今日問題になっている「自己所有」に関しても、様々に伸縮し得る「自己」の境界を考慮にいれるならば、共通の問題は歴史上の多くの社会においてみられ、「自由」と複雑に絡み合った問題群を形成してきた。本稿は、これらの問題に対する初歩的な素描にすぎないが、今後比較の問題を考えて行く上での糸口となれば幸いである。
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© 2003 日本中東学会
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