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出作り地帯である白山麓では、農民は山腹に散居して焼畑と養蚕を営み、冬は谷底の親村ですごした。雑穀栽培の焼畑では秋に猪害を防ぐために威鉄砲が多く使用された。論者は威鉄砲の所持を一向一揆の滅亡と関連づけて考察する。1582年、本能寺の変の3か月前、手取川下流の鳥越城主の鈴木出羽守ひきいる北陸の一向一揆が、支流の尾添川の谷で全滅した。しかし、周辺山地へ逃げ込んだ者も多かったと推察され、彼らが所持した鉄砲が猪追いに利用され、出作りが成立したと考えられる。中世土豪と称される加藤藤兵衛は、手取川の支流明谷川から引水し、段丘上を流下する水道を完成した。これにより牛首(現、白峰村白峰)のような大集落の成立が可能になった。