抄録
1 江戸・東京の都市発達にともなう外郭における見附の役割と見附地の性格 江戸城外郭の見附は,外堀建設当初から市街地が急激に拡大する明暦の大火以前においては,城下町を外部から守る外郭の城門としての役割を担っていた.しかし明暦の大火以後,市街地が外堀を越えて拡大すると,外郭は城下町の中でも城郭内外を区分する役割を担い,城門である見附も,通行を厳重に取り締まった.明治になると,通行上,郭内外を区分する外郭・見附の意味はなくなるが,明治以降の都市施設の配置,都市基盤の整備などが,城郭の内外の区別を明確にして行われたために,外郭・見附の影響は明治以降も存続していた. 見附の性格は場所により異なり,新橋付近から浅草付近まで広がる下町の商業地の中間に設けられた浅草見附や筋違見附は通行が自由であるのに対して,山の手方面の見附は,郭内外を明確に区分するために,厳重な取り締まりが行われた.また,見附の外側に展開する地域(以後,見附地とする)の性格も場所により異なる.下町においては水陸交通・運輸の要所として,市や盛り場を形成したのに対し,山の手方面は,河岸地として商業的に賑わうことがなかった.しかし,江戸の拡大にともない,外郭を越えて展開した武家地に生活物資を提供すため,また治安や風紀の乱れにつながる歓楽街などの必要性により,山の手方面の外堀の見附地には,中小規模の町屋が形成された. 明治になると,浅草見附・筋違見附・数奇屋見附など下町商業地の見附地は,水陸交通の要所で,広い交差点を有し,経済的に重要な役割を担ったのに対して,山の手方面の見附地は,住宅地や軍事関係その他の公共施設として利用され経済的な機能の集積は遅れていたため,下町商業地における見附地に優れた研究蓄積があるのに対して,これまであまり研究されてこなかった.しかし,小石川,牛込,四谷,赤坂など,旧東京市の区名が見附の名前を用いていることからも分かる通り,これら山の手方面の区域における町屋の集積は,見附地において展開し,現在に至っている.しかし,これらの見附地は時代ごとに都市内部における位置づけを変化させており,それにともなった地域の変遷が見られる.2 江戸から現在にかけての神楽坂地区の変遷 神楽坂地区は,慶長年間の江戸城の重要な5つの出入り口の一つである牛込御門から伸びる街道沿いに位置していた.しかし,江戸期において街道の重要性は低く,町屋は拝借地にわずかにできたにすぎず,明治になってからも主要街道として発展することはなかった.しかし,明治中期の日清戦争以後になると,江戸期に岡場所のあった寺社境内から起きた料亭が,周辺の軍事施設や大学の軍人や学生を対象として栄えた.戦災復興は非計画的に進行し,昭和20年代後半には料亭街としても活気を取り戻し,高度経済成長期まで栄えた.料亭とその関連業で栄えたため,料亭が衰退した現在では,商業的集積は進行せず,江戸からの街道や建物割の影響を受けた形で,部屋単位で入居するオフィステナントの進出や個人経営の飲食店が集積している.
