抄録
完新世末の約2千年間、とくに鉄器を伴う稲作が導入されて以後、日本列島では時代を追うにつれ、地形形成に関与する人為的な影響が強まった。とりわけ、ここで扱う中国地方では、デルタ発達にせよ、砂丘発達にせよ、そうした人為的要素を抜きに地形発達史を語り終えることはできないといってよいように思われる。人為関与地形の意義は、未だ体系づけて紹介できる段階には至っていないが、ここでは幾つかの注目に値するであろう人為的要因とその事例を提供したい。1.条里地割施行後の河道固定 山地の占める面積が多い中国地方にあっても、比較的に大きな河川下流には、瀬戸内海に面する岡山平野、広島平野、また日本海側の宍道低地帯に位置する出雲平野、鳥取平野など、まとまった平野が分布する。それらの平野はいうまでもなく、完新世海面高頂期以来の海面微変動や地殻変動と呼応して形成された結果、現成の沖積平野の中にも氾濫を受けにくい場所が形成され、それらが条里地割の施行対象地、あるいは残存地となった。そのような場所では、地割とともに、河道の固定化も進められ、その後の平野形成が人為的に制御されることとなった。たとえば、山口盆地の一角を占める大内地区には長軸をわずかにずらす二種の地割りが確認され、その地割の維持、すなわち農地保全のために、仁保川は、最終的にほぼ直線的な西向きの流れに変えられることとなった。そのような河道整備は、条里地割の施行後、徐々に進められ、江戸期後半になってようやく、現在の姿を取るようになるものの、旧河道や沖積平野内の微起伏からみて、きわめて不自然な地形である。岡山平野の総社周辺、米子平野の日野川扇状地などでも、人為的な河道固定が進んだことが伺える。河道固定は、河川堆積物の氾濫原への拡散を阻害するため、場所によっては天井川化を進めることとなった。この意味でも河道固定は、中国地方の平野地形形成を特徴づける現象の一つといえよう。2..鉄穴(かんな)流しによる山地の地形改変と平野発達 中世末頃に始まった大がかりな砂鉄採取法である鉄穴流しは、中国脊梁山地一帯で、場所により大規模な人為的地形改変を生じることとなった。厚さ数メートルから十数メートルに及ぶ深層風化した花崗岩類を堀崩し、水路中の比重選鉱で砂鉄を採取するこの技法は、結果として、一部山地の大規模改変とともに大量の土砂流下による平野地形の拡大を招くこととなった。その影響は、斐伊川下流の出雲平野、日野川下流の弓が浜半島「外浜」、高梁川下流の岡山平野西部(倉敷、水島)などに顕著である。この他、例えば、鳥取県天神川下流平野の北条砂丘などでも、最上流での鉄穴流しの影響により、花崗岩類砂からなる海岸線に平行する二列の砂丘が、完新世後半に形成された斜行列砂丘の北側に付加するなど、おそらく中国地方の沿岸各地で、様々な影響を残しているものとみられる。3.干拓地の造成による三角州の拡大 周知のように、とくに幕藩体制初期に各藩がこぞって海岸平野や沼沢地の新田開発を開始したことはよく知られている。干満の差が大きく、デルタの潮間帯が広い瀬戸内海沿岸諸地域では、岡山平野、広島平野を始め、各地で活発に干拓が行われた。そのような数ある例の一つである山口県の防府平野は、昭和期にまで至る干拓事業の結果、本来の三角州と比較してその平野面積は倍増した。干拓という人為的な作業を無視しては、もとより狭い面積しか持たない中国地方の沖積平野形成を語ることはできない。4.今後に検討されるべき課題 上述の人為的地形形成要因は、歴史地理学や史学の分野では、その意義が歴史的な文脈の中で論じられ、位置づけられているが、地形学的、あるいは第四紀学的には必ずしも適切な評価を受けているとは限らない。たとえば、河道の人為的固定化の営みが氾濫原形成にどのような歪みを与えることになるのか、また流送土砂はどのような影響を下流に与えたのか、鉄穴流しによる人為的影響は沖積層の層序の中でどのように識別され、評価されるのか、現在の中国地方沿岸の海岸浸食とどう関係づくのか、つかないのか、干拓対象地の拡大の背後には、山地部の鉄穴流しのみならず、多様な人為的な環境改変の影響があったのか、無かったのかなど、今後に残された課題は多い。