日本地理学会発表要旨集
2003年度日本地理学会秋季学術大会
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川崎臨海部における漁業者の合理的選択
*香川 雄一除本 理史佐無田 光尾崎 寛直山内 昌和
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p. 180

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抄録

_I_.はじめに 川崎臨海部における漁業は工場用地のための埋め立てによる漁業権放棄によってすでに消滅しつつある。周知のように川崎は京浜臨海工業地帯の中心地域として近代以降、工業都市化を達成してきた。ところが一方で工場の立地と都市化は居住環境の悪化をもたらしてきた。こうしたプロセスを「地域的環境経済システム」として見直していこうという視角が存在する。川崎臨海部において地域環境の意思決定主体として一定の役割を果たした漁業者に注目し、その合理的選択行動に対していかに場所的な特徴が影響を与えたか、歴史的な推移を踏まえつつ解明していく。_II_.漁業者の形成 多摩川の河口部にあり東京湾に面した川崎臨海部では近世以降、近郊農業とともに漁業が営まれてきた。居住者の就業形態として漁業が確立する上で画期となったのは、明治4年(1871)の海苔養殖のために海面使用の免許を取得したことであった。工場埋め立てが始まる明治末から大正期に至るまでは、果樹栽培や製塩とともに海苔養殖は川崎臨海部の主要産業となる。海苔養殖は川崎臨海部の居住者に利益をもたらすことになるが、その利権をめぐって(大師河原)村内では政争の要因ともなった。さらに漁業組合が結成されることによって川崎臨海部における漁業者の集団が地域組織として確立していくことになる。組合は後の臨海部の土地利用をめぐっても主要な意思決定主体となる。_III_.漁業者による公害反対運動 川崎駅周辺から始まった川崎の工業化は、臨海部の埋め立てによる工場地帯の形成へと進展する。地先海面の利用は新たな工場用地として重化学工業化を担うことになる。しかし工業化の初期の段階では漁業者の漁場と重なるため紛争を惹き起こした。とくに地域環境の汚染につながる工場の立地計画に際しては立地反対運動を結成し、操業後も大気汚染と水質汚濁の苦情を訴える公害反対運動を起こした。その中心となったのが生産物の利害関係をもつ漁業者であった。とくに戦前は、居住環境というよりもむしろ地域産業の損害への補償を求める社会運動であった。戦間期から高度経済成長期にかけての工業都市化は川崎臨海部の漁業者に新たな対応を迫ることになる。_IV_.漁業権放棄による漁業の消滅プロセス 工業化の初期は民間企業による海面埋め立てであったが、昭和期に入ると神奈川県による埋め立てが始まる。この時期を境に川崎臨海部は多摩川河口部に至るまですべて埋立地となり、漁業者は漁業補償を得ることによって漁業権を放棄していくようになる。戦前は部分的な漁場放棄であったが、昭和40年代に入ると公害発生源の工場移転にともない漁業権の全面放棄という決断を下す。これによって漁業組合は解散し、川崎臨海部の漁業は消滅へと向かう。個人的に残っていた漁業従事者も減少していった。_V_.おわりに 川崎の臨海部では現在、エコタウン計画の名のもとに再び土地利用が改変されつつある。地域環境にとっての地先海面、漁場という資源の管理問題が改めて見直されようとしている。工業都市の漁業者に注目することによって地域環境問題における意思決定の一端が明らかになる。さらには場所と合理的選択の関係を地理学的に理解できる。

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