抄録
_I_ 問題の所在 本研究の目的は,北海道沙流川流域におけるアイヌの伝統的地形認知の体系を明らかにすることである.本邦における従来のアイヌ研究は,民族学の諸分野を中心に進められてきたが,地理学的な研究は多くの蓄積があるとは言い難かった.本研究は,北海道沙流川流域を対象地域とし,伝統的生活様式におけるアイヌの環境像,特に地形に関するアイヌの知覚環境の復元を試みようとするものである. 報告者は,アイヌによる地形の民俗分類に着いて,別報(伊勢,2003)において論じているが,地形の民俗分類を手掛かりにすることで,アイヌが当該地域の地形をいかに認知していたかを明らかにすることができ,ひいては主体的環境論の立場から,新たなアイヌの側からの「地誌」の構成が可能になると考えている._II_ 研究方法 本研究では,地形に関する民俗分類を明らかにするために,『萱野茂のアイヌ語辞典・増補版』(萱野 茂,1996・2002)を用い,辞典から地形に関するアイヌ語語彙を抽出した.抽出した語彙を5つのカテゴリーに分類し,民俗分類の方法に基づいて可能な限り語彙素に分解し,アイヌの環境観や当該地域の伝統的生活様式と照らし合わせて考察を加えた.解釈の難しい語彙については辞典の著者である萱野氏に直接インタビューを試みた. ここでは,研究結果をより適確なものとするための操作概念として「地形認知密度」を用いる.その目的は,当該地域のアイヌの地形に対する関心が,どのような場所に強く表出されているのかを明らかにすることにある._III_ 研究結果の概要1) 河川に対する地形認知密度の集中性 本辞典には約8,600語の見出し語が収録されており,その中から地形に関する語彙を120語抽出することができた.その内訳を5つのカテゴリーに分類すると,山地地形が21語,丘陵地・傾斜地の地形が26語,河川地形が33語,低湿地の地形が23語,海岸地形が17語となった.低湿地の地形を表す語彙のうち17語は河岸を表しており,これに河川に関する語彙を加えると,実に抽出した語彙全体の4割強にあたる50語が河川に関わる地形を表現している.一方で,河岸以外の低湿地や海岸地形に関する語彙は少なく,地形認知密度が希薄であるといえる.2) 環境観・伝統的生活様式からみた河川地形認知の特性 知里(1956)は,前近代のアイヌが河川を人体になぞらえて認知し,河川を河口から源流に向かうものとして捉えていたことを報告している.そのことは,辞典から抽出した語彙を語彙素分析した結果からも裏付けられた.当該地域のアイヌにとっての河川は,食糧となるサケやマスを獲る漁労の場であったのと同時に,交通の要所でもあった.そのため,古くから集落(コタン)は河川沿いに立地し,河川地形を身近な環境要素として認知し,独自の感情移入をしていたと考えられる.このようなアイヌによる河川地形に対する感情は,Tuan,Yi-Fuの主張した「Topophilia」の概念を援用することで説明し得ると考えられる.参考文献伊勢 寛(2003):北海道沙流川流域におけるアイヌによる地形の民俗分類に関する予察的研究.地域研究,44-1,掲載予定.