日本地理学会発表要旨集
2003年度日本地理学会秋季学術大会
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農民労働の記念碑としての景観
棚田とクリーク水田
*元木 靖
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p. 6

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抄録
あらゆる地理的事象に対する場合と同様、棚田論議もまた時代の背景との関連を考慮することでその意義や方向を明確にできる。恐らく、人口と食糧のバランスが崩れ米不足がひっ迫したとき、あるいは米作農民の移住に伴い同様の事態を迎えていたときには、関心は開田(棚田づくり)という土木事業一点に集中していたことであろう。棚田を成立させた後では、その補修や利水のための維持管理、さらに棚田での農作業のための方法をめぐって様々な経験が重ねられてきたに違いない。日本の近代化の過程で、棚田に対する関心が高められるようになった嚆矢は、東畑精一著『米』(中央公論社1940)において、棚田=日本のピラミッドが紹介された頃に遡る。すなわち、この当時は棚田の経営・経済問題に強い関心が向けられていた。しかし今日では、米作の近代化が進み、米の過剰がつづく中で、いずれかといえば棚田農耕民の外側からのまなざしが、棚田への関心の所在を明示しているように思われる。それは、都市にでていった稲作農耕民が過去への郷愁にも似たような形で、棚田の景観を先人の知恵あるいは農民労働の記念碑として眺め、その保全策を思案している姿である。これは決して異常なことではない。棚田が結果として、そうした魅力を生みだし、その意義をわれわれに気づかせてくれつつあるからである。フィリピンのイフガオでは、当地の棚田が農地として初めて、ユネスコの指定する「世界文化遺産」となり、観光地化している。もちろん、日本から東南アジアにも広がる棚田の多くは、過疎や生産性の低さなどの多様な問題を抱えつつ、生きたピラミッドとして存在している。ここでは、棚田を、それとは対照的な「クリーク水田」と比べることによって、「棚田とは何か」を考えるための枠組みについて若干の整理をしてみたい。棚田については優れた業績があり、棚田学会による議論もなされているが、棚田をクリーク水田と比較して、棚田論に寄与しようとした例はない。 (1)棚田とクリーク水田には、地形的に限界的な場所に開かれた水田であるという共通点がある。棚田は傾斜地に造成された水田、クリーク水田は低湿な滞水性の低地に造成された水田である。両者は、水田の開発史上からみれば、初期水田の姿ではなく、水田と人間のかかわり合いが一定段階に達した後に、多くの労働力の投入と様々な工夫のもとに発生した水田である。したがって、その多くは稲作先進地の縁辺部に分布している。日本の場合、関東と北陸以西にとくに発達してきた景観である。(2)クリーク水田と棚田の景観的特徴の本質は、いずれも水田造成前の、もとの地形の一部が残されているところにある。前者の場合は数多くの溝渠の存在、後者の場合は畦畔から次の水田につづく土手の傾斜部の存在である(石積みの例もある)。このような、残された原地形(水面)と水田の組み合わせが、特異な水田景観を生みだしている。この原理は環濠や石垣をめぐらした住宅・集落景観にも通じている。また、地域全体の景観像は、クリーク水田ではその外側につづく水田(境には外水防止のための囲堤をもつ例が多い)の配置形態、棚田の場合はその周囲に広がる畑地や山林植生等によっても大きく造形され、特徴づけられる。(3)生産・生活空間としてみた場合、両地域は単一生産を指向する方向ではなく、複合的な世界を構成している。しかし、両者の間には大きな差異がある。水田の機能としてもっとも重要な灌漑は、クリーク水田が一般にその内部に集められた排水を活かして、逆水灌漑の方式をとるのに対して、棚田は外部から導いた用水の重力灌漑に依存する。さらに地域的には、前者ではクリークが相互に連結し、農舟が行き交う通路として利用されるだけではなく、漁業活動の場あるいは肥料の供給源としても機能している。これに対して後者では、坂道や曲がりくねった道が、外側の林地にまで通じ、肥料や生活資源の供給は林業活動など水田以外の部門とも強いかかわりを持つ形で、地域形成がなされている。要するに、クリーク水田地域がクリークを中心に内向きの世界を作る傾向が強いのに対して、棚田地域は周りの畑作や林業等の諸条件と強い関係を結びつつ成立していることを窺わせる。近年、クリーク水田や棚田がもつ水土保全機能が注目されているが、その基盤にはこのような生産・生活空間が存在している。 クリーク水田と比べてみた場合、棚田はその景観だけではなく、生産・生活空間の形成原理にも大きな違いがみられる。棚田地域は(当初段階はともかく)、意外に閉じられた世界ではなく、外部と多様な連携のもとに成り立ってきたように思われる。そして、この点に棚田地域の将来を考えてゆく上での一つのヒントがあるのではなかろうか。
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© 2003 公益社団法人 日本地理学会
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