抄録
1969年2月に西大寺市を合併した岡山市は、続いて一宮町、津高町、高松町(以上は1971年1月)、吉備町、妹尾町、福田村(以上は1971年3月)を合併した。さらに足守町、興除村、上道町(以上は1971年5月)を1975年2月に藤田村を合併した。本発表では旧藤田村地区を取り上げる。1.藤田村の歴史 旧藤田村は児島湾の干拓によって生まれた農村であった。1988年に大阪の実業家藤田伝三郎氏が児島湾7,000ヘクタールの内5,500ヘクタールを独力で干拓することを決意し、同年5月干拓の許可を得、1900年5月起工、1906年466ヘクタールを竣工しこれを灘崎町および荘内村の2町村に分割編入した。 次いで明治1913年4月第2区1,298ヘクタールを竣工、一部を興除村に編入し、その全部をもって藤田村とし、村制を施行、大曲、都、錦の3部落とした。竣工した農地の大部分は合名会社藤田組藤田農場によって経営された。 戦後の農地改革に藤田組の直営地、小作地が全面的に開放され900ヘクタールが自作地に変った。 1955年には当時未完成のままになっていた六区の干拓事業が完成し、藤田村に編入され、面積21.95平方キロメートル、耕地面積1,600ヘクタールを機械化農村として発展を続けてきた。2.岡山市との合併の必要性と目的 岡山市と合併の必要性と目的として次のことが上げられる。国道30号線開通により、岡山市との時間的距離は大幅に短縮され、新たな日常生活圏が形成された。とくに通勤、通学、買物等の岡山市への依存度は極めて高く、一体化が進んでいた。 一方、広域行政の進展による行政的な結びつき、社会的、経済的な交流関係も急速に緊密化し、外観的にも内容的にも一つの都市としての 様相を呈していた。このような現状と将来の発展動向に対応して健全で住みよい、理想的な都市づくりを進めていくためには大幅な都市機能の充実と生活環境の向上をはかる必要があり、そのためには、発展方向を一つにする岡山市と藤田村が統一した計画のもとに広域的視点にたった都市づくりを一体的に進める必要があった。 とりわけ、増加人口に対応した学校、上下水道、道路、清掃施設等の生活環境施設の整備に膨大な投資が必要であり、村独自の行財政力では解決できない面が多かった。3.現在の支所機能 岡山市の11ある支所のうち西大寺支所のみ地域振興や中小企業相談の部署があるが残りの10支所は住民の窓口業務が中心である。よって藤田支所では住民サービスが行き届いているかどうか検証する。藤田支所での住民に対するアンケートの結果は大会当日発表する。