日本地理学会発表要旨集
2005年度日本地理学会秋季学術大会
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漁業権放棄にいたる川崎の漁業者による意思決定の本質
*香川 雄一除本 理史山内 昌和
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p. 79

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抄録

川崎臨海部における漁業者の生成と消滅について、「漁業者による合理的選択」(2003年秋)「漁業組合による漁業権放棄過程」(2004年秋)というテーマで報告してきた。今回は元漁業者への聞き取り調査を踏まえ、前回までの資料調査と合わせて、漁業権放棄にいたる意思決定の本質を探ってみたい。 とくに戦後の漁業再開から1972年の漁業権放棄にいたるまでの漁業者の意思決定を分析することが本発表の目的である。漁業関連の資料収集とともに川崎の元漁業者へ聞き取りを2003年以来、継続して実施してきた。漁業権放棄時には131人いた漁業者も30年以上が経ち、多くの方は亡くなっている。しかしながら最後の漁業組合長をはじめ、元組合長の子息など、数人の元漁業者に漁業に従事していたころの話をうかがうことができた。また漁業組合の元会計担当者の方や、漁業以外に従事していた川崎臨海部の地付住民の方からも漁業関連の話をうかがった。 川崎臨海部での漁業への思い入れは、川崎大師と東扇島に建立されている碑文によって示されている。一部は元の漁場を埋め立てて造られた東扇島にある「川崎漁業百年のあゆみ」には「昔の白砂青松の磯辺 芦洲を背景とした漁場も前述のように次第次第に沖へ追われ 只々漁業への執着心から今日迄営々と父祖伝来の業を守り続けた組合員にとっては正に死活問題でありました しかしながら今後の日本経済の礎石ともなるべき国家的事業であると云う理論の前には抗すべきもなく 一年六ヶ月を要した補償交渉も四十六年九月起業者側と組合との間で調印妥結されました」とある。大正九(1920)年に立てられた「海苔養殖記功之碑」に隣接している「海苔供養祭祭文」には「昭和四十六年、海域の埋立て計画が決定せるや、遂に同年九月、漁業権を放棄せるのやむなきに至る。これ時代の趨勢なりといえども、凡そ永年海苔養殖の業務に従事せる人等にとって、その想い痛恨にして、心情を察するにあまりあり。」と刻まれている。 漁業当事者の漁業への思い入れには、もちろん漁業へのこだわりとともに、仕事としての労働負荷や経営的判断、川崎に限らず日本の高度経済成長という時代背景も影響していた。すでに戦前から、重労働のゆえに海苔養殖業から工場労働者へと転業していた漁業者もいた。戦争の被害によって工業が打撃を受け、食糧難ということからも戦後復興期には漁業者が増えた。昭和30年代に戦前の埋め立て事業を引き継ぐ形で、漁業補償契約が結ばれた。大部分はすでに戦前の段階で埋め立てが決まっていたために、漁場の設定範囲というよりは補償金額をめぐって交渉が行われた。当時は漁業によって短期間に多額の収入が入ると認識されていたこともあり、転業しない場合も多かった。 約10年後に再び、漁業補償交渉が持ち上がった。今度は扇島リプレース計画による漁業権前面放棄をめぐってであった。高度経済成長期は川崎に公害問題による大気汚染や水質汚濁をもたらした。漁業にとっては致命的な環境被害であると考えられるが、漁業者にとっては必ずしも漁業権放棄の第一の理由ではない。兄弟や近隣に住む者たちが工場や会社に勤めるようになり、収入の優位性が失われただけでなく、安定性という面からは負の側面が目立ち始めたからである。汚染による品質の悪化は、沖合いに漁場を移したり、作業方法を工夫したりすることによって、対応していたが、海苔養殖の産地が増えることによって、東京湾という「価値」も徐々に失われた。そして漁業組合員は漁業権放棄に同意し、補償交渉を結ぶことになったのである。 約30年が経過した川崎の臨海部に再び、海苔養殖が復活しようとしている。産業としてではなくNPO法人「川崎海の歴史の保存会」に元漁業者が結集し、イベント時や学習教材として海苔を作っているのである。川崎の環境再生にもつながりうるこの動きは、漁業者の意思決定が合理的選択として導いたものと考えられる。ただし川崎臨海部の住民としての漁業者の大気汚染による被害という課題はまだ残されている。

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