抄録
発表者は三重大学で進められている四日市学プロジェクトに工業地理学の立場から参画し,公害発生都市の地域経済的特徴やその再生に向けた取り組みなどを検討している.そこで得られた知見は,全学共通教育の「総合科目四日市公害から学ぶ四日市学」などいくつかの講義でも扱い,公害問題の教訓を考えるきっかけを学生に提供している.ところが学生達に感想を聞くと,「四日市公害の話は聞いたことがあるが,その後の環境改善の取り組みやコンビナートの変化については知らなかった」というものが少なくない.
高等学校の地理教科書を調べると,地理Bでは「環境・エネルギー問題の地域性」の単元で,地理Aでもいくつかの単元で公害問題が扱われている.教科書によっては,水俣市の環境保全事業や,北九州市などで環境汚染克服の経験が発展途上国に移転されたことなどの記述があるが,公害発生都市がその後どうなったのかは十分に述べられていない.しかし,公害発生都市が公害をいかに克服したかは,環境地理教育にとって格好の素材ではないだろうか.そこでこの報告では,公害を経験した工業都市の再編もしくは再生を,環境地理教育の側面からどのように捉えることができるかについて話題を提供したい.
周知の通り,四日市市は四大公害病の一つ「四日市ぜんそく」を経験している.四日市では,塩浜地区の第一コンビナート稼働直後から,水質汚濁や大気汚染が発生し,住民の健康被害が激化した.1967年に住民側が被告6社を相手取り訴訟を起こし,1972年に津地方裁判所四日市支部で原告勝訴の判決が下された.判決を受け,自治体の環境政策は抜本的に転換した.三重県公害防止条例改正による硫黄酸化物排出量の総量規制,工場の新増設を許可制とする条例によるコンビナートの立地規制などであった.
ところが1970年代後半になると,地元自治体はコンビナートの立地規制緩和・活性化へと転換した.この背景には,第1次石油危機後のコンビナートの業績悪化が地域経済・地方財政に深刻な影響を与えたこと,目標を上回るSOX汚染の改善などがあった.その後第2次石油危機に伴うコンビナート企業の構造不況,さらに1990年代には国内需要の低迷と国際競争力の低下がより深刻となり,コンビナートの再生が重要な課題となった.そのため地域の産業界・行政・大学等が連携してコンビナートの再活性化を図るための協議会が組織され,2003年には構造改革特区の認定を受けた.これは従来型の基礎素材産業から高付加価値素材産業への脱皮,新産業の創出をねらったものであり,新たな投資を呼び込むなど一定の効果が生じている.
四日市にとってコンビナートは公害の発生源であるが,同時に地域経済の中で今も重要な地位を占めている.それゆえ,環境改善および都市の再生に向けた取り組みにおいて,コンビナート企業を抜きにして考えるのではなく,産学官民が広く連携し,認識を共有することが不可欠である.環境地理教育の実践においても,こうした各主体の連携と認識の共有という視点は重要なものであろう.
コンビナート再生の動きは四日市に限ったことではない.重化学工業の立地場所は主に大都市に近接した臨海部の広大な敷地で,産業インフラが既に整備されており,将来においても利用価値の高い土地である.この立地条件を活用した取り組みの一つがエコタウン事業であり,例えば北九州市では環境産業の集積地が形成されている.加えて,ここ数年の間に,大都市圏などでは臨海部へのハイテク関連の工業立地が活発となっている.こうした動きは,工業都市=公害→衰退という固定的な地域イメージを払拭する可能性を有しているとも考えられるのではないか.