抄録
日本における捕鯨業は、17世紀初頭から専門の集団が形成されるようになり、17世紀中葉には紀州、土佐、長州の大藩の領域内と西九州地方の多数の中小の藩において、本格的に鯨組として組織され行われるようになった江戸時代のなかで最も大規模な漁業であった。捕獲された鯨から生産された鯨油は、18世紀以降には西日本の農村において虫害用の農薬として使用され始め、捕鯨業は江戸時代最大級の産業として隆盛を極めていった。
本報告では、紀州、土佐、長州の3つの広大な領国内における捕鯨業の成立と鯨組の展開過程を明らかにする。
従来の近世捕鯨業史研究と重ねて、この分析背景について説明すると、これまでは西九州地方における捕鯨業、所謂西海地方の捕鯨業が、3つの地方に比べて軽視されてきた流れがあった。しかし実は西海地方における捕鯨業が、江戸時代を通じて最も発展し、捕鯨業地域を形成した唯一の地方であった。西海捕鯨業の地域性を強調するために、またこれまで西海地方以外の3つの地方における捕鯨業を同時に比較した研究がないために、紀州、土佐、長州の3つの地方における捕鯨業の実態を概観する。
結論としては、近世に捕鯨業が行われていた主な地方は、東から太平洋沿岸の紀州・土佐地方、日本海沿岸の長州・西海地方の4つであった。従来、4つの地方が同列に並べられていた感があったが、西海地方を除く3つの地方は20万石以上大藩の領域であり、その大藩の国産奨励政策のもと、藩が資金的に援助し、漁村が主体となって組織した鯨組、あるいは藩直営の御手組が中核となって展開していた。御手組中心の鯨組であったため、3つの地方では鯨組経営が円滑に運営されなくて頓挫したケースも多く、近世前期から捕鯨業が開始されて、その後継続して幕末期まで捕鯨業が発展した訳ではなかった。つまり、3つの地方と西海地方との地域差が大きく反映していたと考えられる。