日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
セッションID: 608
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宇和海沿岸半農半漁地域の変貌
商品化する日本の農村空間に関する調査報告(4)
*張 貴民
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キーワード: 宇和島, 段畑, 養殖, 宇和海, 観光
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抄録

 愛媛県宇和海沿岸はリアス海岸が発達し、豊かな水産資源に恵まれたところである。また、佐田岬半島から宿毛湾沿岸まで段畑が広く分布している。江戸時代から、ここは天と地と海のはざまに生きる、相互補完的半漁半農の地域である。
1.段畑における農業経営の変化
 宇和海沿岸の段畑は山頂まで分布していた。段畑は漁村の食糧自給のために造成されたものである。段畑の主な作物は夏に旱魃に強い甘藷で、冬に麦が栽培され、自給的作物として漁民の暮らしを支えてきた。段畑の商品作物として江戸時代から明治年間にかけて櫨が栽培され、宇和海沿岸は愛媛県下で最も重要な産地であった。明治中期以降、櫨に代わって桑が栽培され、県内随一の養蚕産地になったが、戦時中の緊急食糧増産のため換金作物であった桑から甘藷と麦の栽培への転換を余儀なくされた。
 戦後も食糧確保のために食糧作物の栽培が続いたが、昭和30年代になると、商品作物として柑橘栽培が宇和海沿岸北部から南部へと順次に導入され、栽培面積も著しく増加した。しかし、高度成長期以降、柑橘栽培に適した宇和海沿岸の北部は耕地面積が増加させたが、南部は段畑の耕作放棄が見立つようになった。宇和海での真珠母貝養殖、そしてハマチ養殖などの養殖漁業が段畑耕作より生産性が高いこと、高度成長期における労働力の都会への流失は、段畑の荒廃に拍車をかけた。
 しかし、農産物を生産する役割が小さくなった段畑は、そこから見下ろす青い宇和海とともに、重要な農業遺産である。そのなか、遊子水荷浦段畑(8.3ha)が重要文化的景観として選ばれた。養殖業の不振も一因であり、休耕地の復旧の動きもある。現在、段畑は早掘りバレイショを栽培しながら、NPO法人段畑を守ろう会による「ふる里だんだんまつり」など様々なイベントが展開され、ツーリズム空間として変貌しつつある。
2.沿岸漁業の変化
 一方、宇和海は日本有数のイワシ漁場であった。昭和30年代のイワシ不漁をきっかけに、宇和海沿岸の漁村は、昭和30年代に真珠母貝養殖、そして昭和40年代にハマチ養殖を主体とした、付加価値の高い養殖漁業へと経営をシフトした。宇和海沿岸には、リアス式海岸の波静かな入り江が生簀養殖に適していること、宇和海で稚魚が取れること、地元まき網業者から新鮮な餌料を供給できること、漁場が汚染されていないといった好条件が備えたため、発展の草創期に全国生産量の1割を占めるようになった。のちに真珠養殖不況による真珠母貝養殖からハマチ養殖への転換もあり、絶頂期の1980年には全国生産量の28%まで占めるようになった。
 また、真珠養殖については昭和37年に母貝養殖業から真珠養殖業へ許可され、地元漁民による真珠生産が始まった。昭和40年中期の真珠価格の下落の影響を受けたが、宇和海の零細規模の業者は不況に耐え抜けた。宇和海は母貝の主要な供給地であった。昭和52年に愛媛県は三重県を抜いて全国一の真珠生産県となった。平成17年の調査によれば、愛媛の真珠生産量が9,128kgで、全国の31.6%を占めている。宇和海での養殖業はその中心的役割を果たしている。
3.農産物の生産空間から人の交流空間へ
 宇和海沿岸半農半漁地域は過酷な自然環境を巧みに利用してきた。漁主農副から農主漁副へ、そして漁主農副、更に漁業の中でも漁船漁業から魚類養殖や真珠養殖へと商品価値の高い経営へ幾度も転換してきた。現在、観光農園、民家レストラン、農家民宿、漁家民宿などを試み、農村空間の新しい価値を生み出そうとしている。

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