日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 809
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1933年のニューカレドニア日本人移民社会
ヌメアを中心に
*大石 太郎
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抄録

I 目的・資料
 日本人移民の研究は、北アメリカ本土やハワイを中心にすでに多くの蓄積があるが、戦前の太平洋諸島の日本人移民に関する研究が始められたのは比較的最近である。ニューカレドニアもその例にもれず、1892年というかなり早い時期に移民が始められているにもかかわらず、これまでほとんど研究されてこなかった。そこで本報告では、第二次世界大戦前のニューカレドニアにおける日本人移民社会の復元を試みることを目的とする。
 ニューカレドニアでは、県人会組織が発達せず、後述するように1941年12月の太平洋戦争の開戦直後にオーストラリアに強制送致されるという経緯もあり、当時の日本人自身の記録がこれまでにあまり発見されていない。そのため、日本人移民に関する資料は非常に少ない。
 しかし、幸いなことにニューカレドニア公文書館に現地当局による調査記録が保管されている。具体的には、1933年8月12日付極秘文書で総督により日本人移民の調査を指示された各警察管区からの報告である。この調査記録のうち、本報告ではおもにヌメア管区の報告を分析する。
II ニューカレドニアと日本人移民
 ニューカレドニアは18世紀後半にイギリスの探検家クックにより「発見」される。その後、1853年にフランス領となり、流刑植民地とされるが、1864年にガルニエがニッケルを発見したことにより、ニューカレドニアの経済的価値は格段に高まった。人口が希薄な地域であることから、鉱山開発のために移民の導入が検討され、ニッケル鉱山会社と日本政府の交渉の結果、1892年に最初の日本人移民(熊本県出身者600名)が契約移民として上陸した。石川(2007)によれば、1892年から1919年の間に、5,581名の日本人がニューカレドニアに渡っている。そのうち、もっとも多くの移民を送り出したのは熊本県であり、1905年に最初の移民を送出した沖縄県がそれに続いている。
 しかし、1941年12月の日米開戦直後、自由フランス亡命政権を支持する当局は日本人を一斉に逮捕し、オーストラリアに強制送致した。そして戦後は日本に強制送還され、ごくわずかの例外をのぞいて移民がニューカレドニアに戻ることはなかった。
III 調査官からみたヌメアの日本人移民
 1933年8月の調査は、28の警察管区からの報告が残されており、各警察管区からの報告には、調査官による観察事項をまとめた文書が添付されている。これらの報告に記録された日本人移民の合計は1,124名であり、そのうち302名がヌメア管区に居住していた。なお、この数字は成人男性のみのもので、原則として女性と子どもは含まれていない。
 ヌメア管区からの報告における日本人移民像は次の通りである。まず、正式な婚姻関係は少ないものの、ジャワ人や先住民との内縁関係が多い。野菜栽培に秀でており、金銭的援助を含めた助け合い精神がある。ただ、日本人小売業者の先住民へのアルコール提供は問題である。そして、人種間関係は良好で、さしあたりヨーロッパ人にとって脅威ではないが、将来的には脅威になる可能性があると結論している。
 本報告はおもに事実の提示にとどまるが、今後、日本と現地双方の資料を照合していくことにより、多くのことが明らかになると思われる。

文献
石川友紀 2007. フランス領ニューカレドニアにおける日本人移 民―沖縄県出身移民の歴史と実態―.移民研究(琉球大学移民 研究センター) 3: 69-88.
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© 2008 公益社団法人 日本地理学会
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