日本地理学会発表要旨集
2010年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 313
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インド・ラダック地方の村落における生業構造の変容
-山地における人と環境の結びつきに関する考察-
*山口 哲由
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抄録

はじめに

 地理学や人類学において,山地での生業形態は標高に基づいて重層的に形成される多様な標高帯の利用という観点から理解されてきた。例えばヨーロッパアルプスでは,樹林限界を超えた高山草地で家畜を飼養し,標高が低い村落周辺で農耕を営むことで生業を多様化し,厳しい環境での生産基盤を安定させてきた。一方で,これまで辺境とされてきた山地も近年はグローバル経済などに組み込まれており,村落での生業形態も変化している。本研究では,現在の山地における生業形態の事例を示すとともに環境利用の変化を考察する。

調査地と調査方法

 インド北西部のラダック地方は,ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた地域であり,その中央部をインダス川が貫流している。発表者はインダス支流の渓谷に位置するドムカル村で現地調査をおこなった。人びとは標高3,000~4,000mの河岸に住居を構え,灌漑農業を軸としながら牧畜や交易を組み合わせた生業を営んできた。ドムカル村は標高の高い方から上村,中村,下村に分かれるが,特にドムカル上村を中心に職業や学歴,農耕や家畜飼養などに関する聞き取り調査をおこなった。

ドムカル渓谷における農業生産の概要

 ドムカル渓谷は集落部分だけでも長さ10km以上に及び,上村と下村には1,000mの標高差がある。中村と下村ではソバ,エンドウマメ,ジャガイモなどの自給作物の他,レンズマメ,グリーンピースなどの商品作物が栽培されている。一方で,冷涼な上村で栽培可能な自給作物はオオムギだけになり,他にわずかな商品作物が生産できるのみである。ラダックの村落では,搾乳や犂耕,厩肥生産などを目的とした家畜飼養も重要な役割を担ってきた。ドムカル渓谷では,標高4,000m以上は放牧地となっており,現在は減少傾向にあるものの渓谷全体の家畜がここで放牧されている。上村は農耕に関しては不利な立地であるが,家畜飼養ではドムカル渓谷の環境利用のなかでも重要な意味を担ってきた。

ドムカル上村の村外居住者の教育や就労の状況

 ラダックでは,集落での農耕や家畜飼養,それらを商品とした交易が生活を支えてきたが,そのあり方はすでに変化している。ドムカル上村には,戸籍上では82世帯552人が属しているが,実際にはその半数は村外居住者となっている(図1)。平均世帯人数は6.7人であるが,村外居住者を除いた場合には1世帯当たり3.4人となる。
 10代の村外居住者はほとんどが就学目的である。特に15歳以上になると村外居住の割合が75%に増加し,高校進学を機会としてドムカル村を離れる傾向がある。今の20代からは男女間の教育機会の偏りも解消されており,ほとんどがハイスクール以上に進学している。
村外居住者の職業で最も多いのが軍人である。軍では毎月18,000Rs以上の給料を保証され,退役後の年金も充実している。ラダークは現在でも国境係争地であり,紛争も絶えないために,人びとの就職の大きな受け皿となっている。現在,店舗経営に従事しているものでも,軍の退職金を開店資金とした場合も多い。次に多いのが車のドライバーであり,夏季には旅行者のツアーなどで,観光オフシーズンには現地人の荷物運搬で働いており,一年間でおよそ100,000Rsの利益が得られるとされる。また,ツーリストガイドとして働いているものも多い。

討論

 標高3,000m以上のラダックは農業生産に適していないことに加え,インド政府は低地のコムギやコメを安価で配給しており,生業としての農業の価値は著しく低下している。駐留軍に生鮮野菜などを販売する村落もあるが,多くの村落では農業が安定した現金収入源となることは難しい。人びとは村外での就職を希望しており,それが近年の高学歴志向に反映される。しかし,ラダックでの公務員や私企業への就職は厳しく,実際の就職先は軍隊や観光関連となっているのが現状である。
 かつてのラダックの人びとの生活は,狭くは流域単位でほぼ完結していたと考えられる。農耕と家畜飼養は相補的に結びつき渓谷全体で山地混合農業が成立するなかで,それぞれの集落は標高に応じた役割を担っていた。現在は村落自体が空洞化するなかで,農業が担う役割も低下し,家畜飼養も縮小傾向にある。このことは山地の標高差に基づく多様な自然環境の結び付きの低下を示しているが,同時に異なる標高帯に位置する集落間の社会的な結び付きにも影響を与えていると考えられる。

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