日本地理学会発表要旨集
2010年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 317
会議情報

バングラデシュ農村部のローカル市場における「物乞い」の行動
*杉江 あい
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録

 南アジアでは,定期市を中心とした伝統的流通形態が維持されている.市場は経済,流通機能を担うだけでなく,娯楽,社交,情報交換,医療,宗教,自治,行政,司法などの経済外活動も行われる場である.バングラデシュは全人口の約9割がムスリム,1割程度がヒンドゥー教徒であり,喜捨は善行,またときに義務として日常的に行われ,市場には「物乞い」も参集する.定期市における彼らの存在は,石原・溝口(2006),鹿野(1993)によって記されているが,立ち入った議論はなされていない.西川(1995)は,バングラデシュ農村の「物乞い」が集落ごとに設定された施しの曜日に従って行動することを明らかにしたが,定期市に参集する「物乞い」については詳しく論じなかった.
 ここでいう「物乞い」は,主に都市地理学や社会学が従来扱ってきた「浮浪者」という概念では捉えられない存在である.「浮浪者」,「ホームレス」といった概念は,都市,社会問題の枠組みで構築されてきた.こうした概念では捉えらない,特に宗教的観念に結びついた「物乞い」という存在を概念化してきたのは,主に民俗学,人類学である.ムスリムにとって「物乞い」への喜捨は一方的贈与ではなく,宗教的価値(来世における神からの報酬)と経済的価値という,異次元間の互酬的な交換であると理論上説明される.この理論に従えば,「物乞い」は商人と同様に,財,サービス提供の一部門を担う存在であるともいえるが,実質的には市場を通して経済的不均衡の平準化が行われているのである.本研究は,施しを得る場として,「物乞い」が地域の市場をいかに利用しているのかを,個々人の属性,および交通の便,移動手段に着目して明らかにした.
 本研究は,バングラデシュの首都ダッカから北西70kmほどに位置するタンガイル県の農村,およびその周辺を対象地域とする.調査期間は,2009年2月26日から3月4日,6月11日から7月4日,9月8日から9月27日である.村人へのインタビュー,および市場や村で直接接触することができた「物乞い」に対し,宗教,年齢,家族構成,およびインタビュー日を含む最近1週間のうちに行った「物乞い」場などに関するインタビューを行った.また,カジラッパラの住人の1人に,2009年の7月上旬から9月上旬の約2カ月間,住人宅に施しを求めて来た「物乞い」について記録してもらった.
 インタビューを行った「物乞い」の44人中28人までが主に視覚,身体障害を持つ.障害者をのぞく16人中12人が,寡婦や夫から扶養放棄された女性,あるいは障害を持ち,「物乞い」をしている夫を持つ女性である.カジラッパラの住人による記録では,住人宅に訪れた「物乞い」45人は全員徒歩で来ており,障害者は妻に連れられてきた視覚障害を持つ男性1人のみであった.
 彼らの1週間の「物乞い場」を見ると,市場に行く頻度の高い「物乞い」は,障害を持つ男性がほとんどであり,居住村から比較的近い市場に行く場合と,バスを利用して幹線道路,舗装道路沿い,またはその付近の市場に行く場合とに分けられる.障害を持つ男性の「物乞い」の間では,毎回ではないにしろ,無料でバスに乗れることが多く聞かれた.荷車や地縁血縁者による手助けによって移動する障害者,および障害を持たない者は,幹線道路,舗装道路に影響されにくく,居住村,舗装道路両方から離れ市場にも行っている.一方,集落に行く頻度の高い「物乞い」には障害を持たない女性が多い.彼女らは,居住村近くの狭い範囲内で家から家を渡り歩いて「物乞い」していた.

文献
石原 潤・溝口常俊 2006.『南アジアの定期市―カースト社会における伝統的流通システム』古今書院.
鹿野勝彦 1993.市とカースト.季刊民族学17(1):28-39.
西川麦子 1995.生業活動と一方的贈与をめぐる社会関係―バングラデシュ村落社会の文化人類学的研究.大阪大学大学院博士論文.

著者関連情報
© 2010 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top