日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S1503
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大正軍縮期前後の中舞鶴・新舞鶴
人口を中心とする比較分析
*山神 達也
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抄録
鄙びた農村に日本海軍の枢要地たる近代都市が短期間で形成された舞鶴軍港周辺地域では,ワシントン海軍軍縮条約調印後の1923(大正12)年,舞鶴鎮守府の廃止と要港部転換,そして海軍関連諸組織の廃止・縮小の影響を強く受けた。本研究では,中舞鶴町と新舞鶴町を対象として,大正軍縮期前後における人口変化を検討することを通して,両町の性格の違いを考察した。まず,中舞鶴町から整理すると,1920年代前半に大幅な人口減少を記録したが,それは主として舞鶴海兵団所在で準世帯人口に分類される海軍兵員の減少によるものであった。加えて,海軍工廠の人員整理に伴う工業就業者の減少も大きく,家族を形成した世帯の転出を伴った人口減少がみられた。一方,新舞鶴町では,1920年代前半の人口減少は比較的小さかったが,その多くは,海軍工廠の人員整理に伴う青壮年層男性の家族を伴った転出であった。しかし,1920年代後半には増加に転じた。この人口回復も普通世帯人口によるものであった。その中で,商業と公務自由業の就業者は増加が継続した。公務自由業就業者の増加は海軍機関学校の舞鶴移転に伴うもの,商業就業者の増加は,新市街の繁栄地として商業が集積していたこと,全国的な流通部門の拡大,国鉄敦鶴線開通と新舞鶴港開港に応じた商港発展を目指した動きなどによるものと考えられる。ただし,大正軍縮の影響で激減した海軍兵員や工廠職工を主要顧客とする女性飲食店従業者や芸妓・娼妓の数は大きく減少した。両町にこうした差が生じた要因を考えると,1920年,第1次大戦後の海軍拡張やシベリア出兵が継続する中で,舞鶴鎮守府や舞鶴海軍工廠が充実期を迎えていたことが,大正軍縮に伴う中舞鶴町の人口減少を大きなものにしたといえよう。また,開発しやすい土地の広狭という土地条件の差,さらには官設舞鶴線の終着駅が新舞鶴駅となったことで商業繁栄の中心が新舞鶴町に形成されたことも大きな要因であろう。このように,海軍と工廠職工の町である中舞鶴町に対して新市街の商業繁栄地としての性格が強い新舞鶴町という両町の性格の差が,大正軍縮期における人口の動向に大きな差をもたらしたと考えられる。
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