抄録
1.研究背景と問題意識
2010年現在、すでに200万人超の外国人登録者を抱える日本では、一部に外国人集住都市が顕現するなど、定住化する外国籍住民との「多文化共生」が大きな課題となっている。とりわけ、隣人として日常的にかれらと接する受け入れ地域社会では、1990年代の混乱期を経て、日本人住民と外国籍住民の新たな共生のかたちが模索されはじめている。
多文化共生に関する従来の研究では、社会学を中心に、国や地方自治体といった行政レベルの諸施策、あるいは受け入れ地域社会の変容や葛藤をめぐって議論が展開されてきた。しかしながら、移民エスニック集団それじたいが地域社会とどう向き合い、ローカルな多文化共生に関わろうとしているのかを明らかにした研究は限られている。こと、在日フィリピン系移民の研究に関して言えば、日系南米人と比べて実証・理論ともに蓄積を欠いているのが現状である。
そこで本研究では、フィリピン人人口の多い愛知県名古屋市中区栄東地区を事例に、フィリピン系移民の組織化を通じた地域社会との関わりから、移民エスニック集団がローカルな多文化共生の実現に果たす役割・可能性・限界を明らかにしたい。なお、本研究の調査は、当該地区におけるフィリピン系移民自助団体での10年間にわたるボランティア活動を通した、発表者の参与観察にもとづいている。
2.フィリピン系移民とローカルな多文化共生
名古屋市を拠点とするフィリピン系移民の組織化は、1980年代半ばに始まった。しかしながら、かれらの抱える諸問題の解決を目指す自助団体の本格的な組織化は、2000年に入ってからのことである。背景には、日本人男性との国際結婚によってフィリピン人女性の定住化が進んだこと、と同時にそれによって私的領域(家庭)における問題が増加しはじめたことがある。
2000年に栄東地区で誕生した自助団体Fは、当初はフィリピン系移民内部の問題解決に取り組んでいたが、2003年頃になると外部である当該地区の日本人地域社会との関わりをもつようになる。相手先は、町内会を母体とした地元まちづくり組織や区役所であった。地区の夏祭り、クリスマス、防災・防犯・消防活動、公園の掃除、文化・スポーツイベント等、3者間のローカルな協働作業がいくつも行われた結果、フィリピン系移民は共生における移民側の主体として急速に可視化されていった。
ところが、2003~04年にかけて異なる2つの大きな事件が発生してしまう。_丸1_超過滞在フィリピン人男性数名の逮捕事件と、_丸2_自助団体F事務所の区外移転事件である。_丸1_は多文化共生に対するフィリピン系移民の失望感として、_丸2_は日本人の目には自助団体Fの背信行為として映り、少なからず遺恨を残した。どちらの事件も、発端や非が3者にあったわけではないが、盛り上がりかけたローカルな多文化共生の機運に水を差す結果となった。それ以降、3者は適度な距離を保った上で、文化・スポーツイベント型の「負担のない」多文化共生が展開されていく。
3.考察
これら事件は、ローカルな多文化共生の実現にとって、いくつかの重要な課題を浮き彫りにしている。第1は、各主体間には目指すべき共生像にズレがあるという現実である。フィリピン系移民の間では、構成員が超過滞在か否かは共生活動に影響しない。ところが、日本人地域社会側では、そういった人々は皆一様に「不法移民」となり、共生社会の一員とはならなくなる。これが_丸1_の事件を引き起こす。第2は、共生活動の地理的スケールにズレがあるという現実である。行政やまちづくりは、活動の地理的スケールが明確に設定されている一方で、移民のそれはエスニック・ネットワークを介してどこまでも延伸し、容易に特定のスケールを飛び越えてしまう。このような地理的スケールのズレに対する相互無理解が、_丸2_の事件を引き起こしたのである。ローカルな多文化共生実現の鍵は、こうした諸課題(限界)を各主体が引き受けながらも交渉しつづけるという、不断のプロセスそのものにあるのではないだろうか。