抄録
近代都市に残る近世的要素として、かつて同業者町に注目する歴史地理学的研究が行われたが、多くの課題を残したまま停滞した。しかし、経済的に発展しつつ今日なお存続する同業者町の例を見ると、近代期に特有の同業者町の機能や特質を再検証することは重要である。発表者は先に、アクター間の関係を「調整」する制度・慣習の重要性を強調する産業集積論の視点を参考に、近代化を遂げた同業者町では単純な同質性によって集積が維持されていたのではなく、多様な業者・構成員を含みつつ、その利害対立を「調整」していくことが同業者町の維持存続にとって重要であったことを論じた。しかし、この「調整」機能がその後の戦間期を通じて、現代に向かってどう変化していったのかという課題が残った。そこで本発表は医薬品産業の大阪道修町を事例に、戦間期の同業者町における業者間の調整をめぐる社会関係の変化を分析する。第一次世界大戦後、停滞した大阪の医薬品産業は、1930(昭和5)年前後から発展に転じる。この時期の製薬業の成長は新薬製造の導入という点から捉えることができる。外国製新薬の輸入増加にともなって、大問屋を中心とした新薬の輸入と販売が激化した。こうした中、国内製薬業者の関心も新薬製造へと転換した。新薬を中心とした市場環境の変化は問屋による自家製剤への途を開き、新薬の価格は製造者が定めるため、製薬業者や問屋がイニシアチブをとる新流通経路が構築された。一方、第一次大戦を契機とした薬品相場の混乱は、道修町内の同業者間における協調的紐帯を緩め、競争的関係を激化させた。このため、道修町薬種商の動向を示していた大阪薬種卸仲買商組合の文書資料は激減する。薬品検査や度量衡の統一、薬事行政への対応に際して従来同資料中に見られた意思決定と調整は、代わって大阪製薬同業組合の資料に見られるようになる。後者の組合の意思決定機関である役員や評議員会の主要業者を見ると、戦間期を通じて従来からの製薬業者は減り、代わって製薬業に転じた有力問屋が参加していく。さらに、組合加入範囲の府下全域への拡大などを受け、意思決定の迅速性を理由に役員、評議員は少数化されていく。役員、評議員は道修町近隣に営業所をもつかつての有力問屋が占めるようになり、大阪薬種卸仲買商組合においては一勢力に過ぎなかった業者間での利害とその調整が、大阪全体の医薬品産業に影響を与えるようになっていった。