抄録
はじめに 鰊漁業の定置網には,1統に約30人の漁夫を要する.鰊漁獲地域周辺では揃わず,多くは他地域からの出稼ぎ者であった.その出身県や雇用方法についての概況は知られている.しかし,経営者と漁夫との関係,経営規模による必要漁夫確保への対応の違い,また,それが漁獲量の衰退によっていかに変化するかといった実証研究は資料の制限もあり,明らかにされてこなかった.
本発表では,北海道高島郡において,大規模な鰊漁家経営を行なっていた青山家を対象とし,同家がいかにして漁夫を集めて鰊漁業を実行し,鰊漁業が衰退する時(昭和初期)にどのような策を講じたのか,その経営戦略を明らかにすることを目的とする.北海道内における鰊漁家は多く,全体像を描くことは難しい.そこで,同時代に同地域における規模の異なる2つの漁家(大規模鰊漁家の青山家・中規模鰊漁家の南家)を事例として取り上げ,経営分析を行なうことで,実態に迫る方法をとる.
漁夫雇入れ活動 雇用漁夫数が多い鰊漁家が,毎年どのように漁夫を集めたかを明らかにするために,漁夫募集地域(漁夫の出身地域)を把握する.青山家資料の「漁夫募集帳」より,青山家は広い範囲の漁夫募集地域を有したことが明らかになった.これは,秋田県山本郡のみから雇っていた南家の状況とは,大きく異なる.また,複数の募集地域を確保さえすれば,簡単に漁夫が集まったわけではなかった.毎年同じ漁夫が来るとは限らず,一定の人数を確保できる保証はどこにもない.漁夫募集活動に関わった者による書簡のやりとりからは,問題に対応する姿を描くことができる.
鰊漁業衰退期の状況と打開策 1935・36年の高島郡鰊皆無時,南家は樺太まで生鰊を買いに行き,利益を得る方法をとった.同時期,青山家は雄冬にも鰊漁場があったため,青山家全体で見れば利益は見られた.一方で,経営者の息子は,鰊漁業以外の道も考え始める.1934年,北海道浦河町で鰯加工業を一緒にやろうという大分県の漁家による巧い話に飛び乗る.結局,騙されてしまうものの,浦河青山漁業部として加工場を開き,10年以上続けた.青山家は鰊漁業衰退期には,広域的な経営を行なっていたため,中規模鰊漁家のような被害はなかったが,漁業の範囲を拡大することで,青山家を維持する試みがなされた.