抄録
ヒマラヤ山脈を越え、家畜の隊商が交易をおこなうことは古くから知られてきた。東ネパールのソルクンブー郡には、エベレストの近くにナンパラ峠があり、チベット動乱の起きる1959年以前、塩や穀物が行き来していた。その後、ヒマラヤ越えの交易は各地で廃れ、ソルクンブー郡は交易の中継地点から観光地となった。これに伴い、生活物資の流は低地から高地へ一方方向に流れるようになった。ただ、筆者の見聞した所では、1990年代の後半にもチールー(羊の脂肪)、ルーシャ(羊の乾燥肉)などの畜産物がチベット側からネパール側に商品が流通しており、畜産物に関する限り、ヒマラヤ交易は細々と続いていとの疑問を抱いた。また、生活物資と引き替えに、ソルクンブー郡の産物が域内外に流通してゆく可能性もあるのだろう。
以上のような関心から、本研究では、畜産物交易に焦点を絞り、その流通経路を調査した。取引する畜産物の交易を、①ローカルな消費、②域内流通(ソルクンブー郡内)、③域外流通の3つにわけ、域内外への流通を促す要因を考察する。調査は、2011年8月にソル地方で、2013年2月にクンブー地方でおこなった。
ヤクのチーズ。2013年に関する限り、クンブー地方にチーズ工場はなく、観光客向けのレストランで出されるチーズの多くは、ソル地方やパラク地方から運ばれたものである。定期市にも出品されるが、商人から直に購入するという。クンブー地方でもヤクを飼う人はいるが、その脱脂チーズやバターなどはヤク飼養者から直接購入することが多く、ごく一部が定期市に出品される程度である。
ヤクの肉。クンブー地方では「ヤクステーキ」と称したヤクの肉料理が売られている。しかし、定期市で売買される肉はすべて水牛の肉であった。ソル地方でもクンブー地方でも、ヤクを肉用に屠殺する習慣はなく、死亡した肉を乾燥・貯蔵することもあるが、量が限られており、売買する場合でも普段からつきあいのある人にしか渡らない。
羊毛。外国人向けのみやげ物となるショールのなかにはチベット産(中国産?)のものも一部含まれる。これはナンパラ峠を越えてチベットから来た商品である。ただし、2011年頃までは毎年隊商が来ていたが、この数年中国側の官憲が通行を許さず、来ていないという。なお、みやげ物店ではヤク・ウールのショールが売られるが、そのなかにはカトマンズ産のショールも少なからず含まれると思われる。
羊の脂肪と羊の乾燥肉もこの峠越えの隊商がチベットからもたらしたものである。2011年にはソル地方でも流通しており、チベット仏教の僧院で購入できた。だが、国境封鎖により、現在では入手が困難である。ちなみに2013年にはツァンパ(炒った大麦の粉)も品不足でトウモロコシの粉で代用していた。こちらは国境封鎖によるチベット産の減少による影響もあるが、ソル地方の不作が大きいとのことである。
以上の結果から、ヤクの肉・脱脂チーズ・バターはローカルな消費、ヤクのチーズは域内交易、羊毛ショール・羊の脂肪・羊の乾燥肉は域外交易であり、ヒマラヤ越えの交易は国境封鎖で中断する2011年頃までは細々と続いていたことがわかった。また、ローカルな畜産物のほとんどがローカルな消費を基本とすることを考えると、クンブー地方の観光化により、ソル地方産のヤクのチーズが新たな域内交易を確立した意義は大きいことがわかった。