抄録
学校教育における環境教育は,児童・生徒の発達や学習の段階から考えてふさわしいという点から,しばしば校区や集落といった身近な地域において展開される.地域の環境を教材とすることで,地域社会が抱える課題を知り,児童・生徒自身の生活と関連させながら実践を通してさまざまな学びを得られるためである.そして,地域が学習の舞台となることで地域住民が学習の協力者として参与しやすくなり,地域連携教育が成立し,地域社会全体で環境教育に取り組みやすい仕組みが生まれる.学校と地域の関係は,戦前から高度経済成長期,そして現在に至るまで,社会の変動に影響される形で調和と乖離を繰り返してきた.地域連携教育において環境教育を展開することは,変動する地域社会に応じながら学校と地域の関係を保ち,地域資源を省みることで,地域アイデンティティが再構築されることに意義がある.そのため,学校は基礎教育の場として,また地域コミュニティの中核を成す場として重要であるという議論の中で,環境教育では学校と地域コミュニティがどのように連携して取り組むかが課題となる.そこで本研究は,滋賀県東近江市能登川地区の能登川南小学校区を対象とし,学校と地域社会がどのような関係をもちながら地域全体で環境教育に取組み,その中で学校が果たす地域の拠点としての役割を明らかにする.その結果,学校と地域が連携することが地域社会にとってどのような意味をもち,相互に与える影響について検討する.本研究では,環境教育を「学校教育」と「地域」を軸に捉える.能登川地区の歴史的変遷を踏まえた上で,学校教育の視点から,児童・生徒に対する教育的な効果,学習をサポートする各主体の役割分担やネットワークの仕組みを明らかにし,地域を巻き込んだ環境教育がまちづくりの中に与える影響を示す.地域の視点からは,環境教育を題材に地域社会が学校教育に参与していくことでみられる作用を検証する.本研究の対象地域である能登川地区(旧能登川町)は,滋賀県東近江市の北西端に位置する.明治初期までは農村風景が広がり,大正期には良質で豊富な水資源によって,繊維工業地域が形成された.しかし,1889年7月に彦根駅・近江八幡駅の中間駅として,地区を横断するように能登川駅が開設されると,農地転用が繰り返されて宅地開発が進む.1944年と1958年に行われた干拓事業によって水田面積が増加したが,1973年に計画決定された「能登川町都市計画」により,市街化区域内の水田は宅地になった.さらに2006年には,旧能登川町が東近江市に編入合併し,行政区域が拡大した.そして,京阪神のベッドタウンとして,現在もなお人口増加が進んでいる.また,駅前の紡績工場が大規模な商業施設になり,さらに人口が流入している.能登川地区は,古い住民と新しい住民の混住が進み,地域の場所としての個性が急速に失われ,地域アイデンティティの再構築が課題となっている.能登川南小学校では,20年以上にわたり,豊富な地域資源を題材に環境学習を行なってきた.また2003年から滋賀県独自の「エコ・スクールプロジェクト」に取組み,これまでの環境学習に加え,子どもたちが日常生活においても環境行動を実践できるような活動を展開している.さらに,活動の持続性や発展を確実なものとするため,学校全体の環境教育活動を支援する「エコ・スクール支援委員会」をPTA会長,能登川地区の環境行政,地域の有識者などで組織している.地域住民が支援委員会として学校教育を見守り関わり続ける仕組みをつくることで,活動を永続的にすることができるのである.能登川南小学校区では児童が中心となり,教師,保護者,地域住民を巻き込んで環境教育に取組むことで,地域アイデンティティの再構築を図っている.子どもはいわば地域をつなぐ“接着剤”のような役割を果たすといえる.以上のことから,環境教育における拠点としての学校の役割として2つの意義を指摘しておきたい.第1に,学校は「児童・生徒の気づきや実践の場」という点である.学習のテーマとして地域が題材となり実践することで,環境への親しみを体得することができる.自主的な学びや参加による学びは,郷土愛の育成を促進させる.次に,「地域への社会奉仕の場」という点である.地域住民自身も環境教育に参与しながら地域資源を省みることで,地域のアイデンティティの源泉を再認識し,住民間の交流が生まれる.すなわち,学校は地域の再生,維持を担うコミュニティの拠点としての機能を持ち合わせているのである.学校教員という特殊な職業上生じる制約や,活動の中心的な存在である教員の異動,さらには「ゆとり教育」の批判から地域連携教育を取り巻く環境は厳しい.しかし,学校がもつ拠点性は地域社会にとって大きな効果を生み出しており,地域が学校教育に参与することの意義が問われるのである.