抄録
本発表では中山道望月宿を対象として,宿場町としての望月宿の歴史的変遷に着目しつつ,歴史的建造物に対する所有者の保全意識や景観要素の空間分布,住民組織による取り組みを分析し,望月宿が有する歴史的町並みの地域的特性について考察する。
中山道は江戸と京都を結ぶ主要幹線道路として整備され,山間を通る中山道沿いの宿場町は,今もなお当時の面影を残す歴史的町並みが数多く存在する(織田 1997)。望月宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて25番目の宿場であり,長野県佐久市旧望月町に位置する。1600(慶長5)年,鹿曲川によって形成された南北に延びる狭長な左岸の河岸段丘において,望月宿(望月本町)が開設された。1602(慶長7)年以降,参勤交代や一般の宿利用が増大し,1629(寛政6)年までに鹿曲川右岸に「望月新町」が形成された。これにより望月宿の範囲は大きく拡大し,家数も1702(元禄16)年には24軒,1742(寛保2)年に58軒と増大した。しかし,1742(寛保2)年に東信地方を通過した台風によって鹿曲川が大氾濫し,とりわけ望月新町は壊滅的被害を受けた。これにより望月新町は鹿曲川右岸から左岸の望月本町南部へと移転し,中山道は鹿曲川右岸の枡形右折していた道を,直進して鹿曲川を渡り,新たにつくられた枡形を通って木戸をもぐり望月新町に至るよう道筋が変更された。1744(延享3)年には望月本町の加宿となったが,その後も望月新町として独立して存在した。一方で望月本町も度重なる災害被害を受けており,1812(文化9)年に公儀の費用で鹿曲川一帯の大改修を行い,水難を逃れるに至った。 望月宿は政治・経済的な影響だけでなく,洪水や火災といった多くの災害によって宿構造が変容してきた。望月宿に現存する歴史的建造物の多くは鹿曲川の大改修以降に新設・修景されたものであり,災害の歴史を色濃く反映した町並みが形成されている。
本研究では,望月宿の歴史的町並みを構成する景観要素として,格子・格子戸,出桁造,梲,土蔵の空間分布に着目した。格子・格子戸について言及すると,中山道街道沿いに立地する建造物に分布する傾向にある。格子・格子戸は生活環境や交通条件の変化に伴い,昭和期初期までにほとんどが取り壊されてきた。現存する格子・格子戸の多くは昭和期中葉以降の改修時に改めて設置したものである。格子・格子戸は生活上必要不可欠な要素ではないが,宿場景観を継承したい保有者の考えから,生活環境上影響の少ない二階部分に格子・格子戸を設置する傾向にある。また,望月町商工会館や佐久市歴史民俗資料館にも格子が設置されており,「望月宿」としての宿場景観が再構築されつつあると看守できる。 一方で,2000年代以降,住民組織による新たな景観要素が創出されてきた。NPO望月まちづくり研究会では,望月町の住民に対して宿場情緒を彷彿させる屋号看板の設置を呼び掛けてきた。望月町は書道家である比田井天来の出身地であり,2002年に比田井天来の生誕130年と中山道開設400年に併せ,天来門流の書道家らによる屋号看板の揮毫会が開催された。屋号看板はまず中山道沿いの歴史的建造物に掲げられ,その後徐々に望月町の商業施設に設置されるようになった。現在では80を超す屋号看板が設置され,望月宿における宿場景観を構成する主要素となっている。また,2005年,望月町が佐久市に合併されると,佐久市によるまちづくりも取り組まれるようになった。佐久市では望月宿を対象とするまちづくり交付金事業を展開しており,その中で沿道モニュメントや歴史散策ルートを整備するなど,地域住民や来訪者に中山道望月宿の趣を提供できる場として望月宿に注目している。 望月宿の歴史的町並みは災害の歴史から江戸時代末期に形成されたものであり,生活環境や交通条件の変化を体験する中で,その様相は大きく変貌してきた。しかしながら,時代の流れの中で自然と淘汰されつつある宿場景観に対し,歴史的建造物所有者をはじめとする住民意識は少なからず形成されており,日常生活に支障がでない範囲内で宿場景観が再現・維持されてきた。このような状況の中で,新たな景観要素として屋号看板の設置が試みられた。和田宿や芦田宿においても屋号看板設置は取り組まれているものの,天来門流の書道家による屋号看板の設置は,望月宿の地域性を如実に反映するものと指摘できる。望月宿では歴史的町並み喪失の危機にさらされつつも,歴史的建造物所有者による景観要素の部分的な維持・管理や,住民組織による新たな景観要素の創出によって,新旧複合的な景観要素の組み合わせによる歴史的町並みの諸相が描かれている。