抄録
カンボジア・シェムリアップ州を中心に分布するアンコール遺跡は,9~14世紀にかけておもに砂岩とラテライトなどの石材の組積み工法で建築された。19世紀にヨーロッパ人によって発見された当初,多くの遺跡は,厚い植生に覆われていたと考えられている。その後,国際的な遺跡の保存・修復事業が進められ,遺跡周囲や遺跡を構成する砂岩ブロック上の樹木は取り払われてきた。砂岩ブロック上の樹木は,遺跡の崩壊に結びついていると考えられるが,遺跡周囲の樹木伐採は,建物の高温化をもたらし,砂岩ブロックの乾湿変動を加速させていると推測される。そこで本研究では,アンコール遺跡の熱環境を調べるとともに,その砂岩ブロックの風化に与える影響を分析した。
熱環境を調査するために選定した遺跡(寺院)は,植生被覆の環境が異なるアンコール・ワット,タ・プロムおよびバンテアイ・クデイの3寺院である。これら寺院では,2014年3月16日から21日にかけて,温・湿度を記録するロガーを境内にほぼ等間隔にそれぞれ約40機設置した。そして,温・湿度を4分間隔で計測し,約24時間後にロガーを回収して,気温分布を調べた。また,ロガーによる計測時間中,寺院を構成する砂岩ブロックの表面(放射)温度をサーモグラフィーで測定した。一方,砂岩ブロックの風化状態は,アンコール・ワットを対象に建築部材(柱)の凹み深度を方位別に測定して分析した。
境内における気温分布を調べると,建物の近傍は建物の周囲を取り巻く緑地の気温より約2℃高いことがわかった。アンコール・ワットを例にとると,気温分布は日の出前(6:00)にはおおむね均質であるが(図1A),10時における建物近傍の気温は緑地より最大で約3℃高い(図1B)。また,サーモグラフィーによる同日9時における回廊東側の表面温度は,55℃(気温31℃)に達していた。この表面温度は,15:31でも約40℃(気温34.5℃)の高い温度を維持していた。建物近傍の気温が,その外周に広がる緑地に比較して高いことは,2011年の乾季と雨季に実施した気温観測結果からも判明している。このため寺院では,直達日射を受けて加熱した建物と緑地との間に,年間を通じて大きい温度勾配が生じている。
アンコール・ワットにおける回廊を支える砂岩柱の基部に発達する凹みの深度は,日射のあたる日向側で深く(平均最大深度:約35mm),日陰側で浅い(約13mm)。柱は降雨があると毛細管現象により水分を吸い上げるが,日向側では日射を受けて急速に乾燥化が進む。これに対して柱の日陰側は,日射を受けにくいため,乾燥化の進行は遅い。すなわち,柱の凹みはおもに乾湿繰り返しによる風化によって形成されたと考えられる。
アンコール遺跡では,保存・修復を目的に樹木伐採が進められてきた。しかし,これは建物に対して,樹木による日射の緩和効果を減じてしまった。建物の高温化は,雨水を吸水した砂岩ブロックの乾燥化を加速させ,大きい乾湿変動をもたらしていると推測される。このため,建物周囲の樹木伐採は,寺院を構成する砂岩ブロックの風化に加担している可能性が高い。