抄録
1.はじめに
空中写真は、地図作成において、地上の状態を把握する有効な資料である。今日では災害発生時にその威力を発揮している。しかし、第二次世界大戦時には、空中写真は偵察用に撮影されていた。日本では多くの都市で空襲を受けたが、空襲前に米軍は写真偵察機を飛ばして、高高度から空中写真を撮影し、爆撃目標の選定を行っていた。現在、これらの空中写真は、米国の公文書館別館において公開されており、閲覧が可能となっている。この空中写真は、第二次世界大戦中の都市状況を知る重要な資料であり、空襲で焼け野原となった都市の以前の状況を知る手掛かりにもなる。
一方、当時の政府は昭和18年10月に防空法を改正し、重要都市において、延焼を防ぐことを目的とした空地帯を設けるための建物撤去を開始した。これを建物疎開というが、この研究事例は少ない。これは、戦時中のことで資料が散逸していることが大きいと見られる。また、各都市の市史にも数行の記載がある程度で、建物疎開が行われた具体的な範囲を示した事例はない。 そこで、米軍が第二次世界大戦中に撮影した空中写真と文献資料をもとに建物疎開が行われた地域を特定する作業を行った。今回は、特に函館を事例に調査した内容を発表する。
2.函館における建物疎開の資料について
函館は、明治から昭和にかけて3回の大火に見舞われた。そのため、都市計画によってグリーンベルトや大通りが建設された都市である。しかし、防空法によって、さらに建物疎開が行われた。
この函館における建物疎開は、函館市(2007)に記載があり、北海道新聞からの引用で昭和20年5月20日に建物疎開を着手し、同年6月10日に完了したと記載されている。北海道新聞の4月27日の記事によれば、大きく5箇所で建物疎開が実施されたことが記載されている。一方、函館市(1959)では、18箇所で防空疎開地帯が設けられたと記載がある。こちらは聞き取りによると記載があり、着手半ばで中止になった箇所もあるとの注意書きがある。これら2点の文献でも建物疎開が行われた位置は異なっており、文献調査だけでの建物疎開地区の特定は難しい。
3.空中写真による特定
函館は、米軍が昭和20年6月27日に撮影を行っており、建物疎開後の状況が判読できる。写真1は、函館駅周辺の空中写真であるが、左下に函館駅がある。駅周辺の防火のため右下にかけて広く建物が撤去されていることがわかる。家屋の屋根は黒く、地面は白く写っており、中央部の建物疎開が行われた場所は礎石等によって不自然に白く写っている。また、都市計画によって設置された道路と異なり、家屋の境界線が不自然に形状になっていることからも確定できる。なお、このエリアは、北海道新聞に記載されていた地域であり、文献資料と空中写真判読により建物疎開地域の特定が可能である。
4.おわりに
公文書館が保有する米軍撮影の空中写真のうち、現在、地図センターでは7千枚を入手し作業を進めている。今後、図1に示した地域で、建物疎開が行われた地域の特定を進めていく予定である。