抄録
1.研究の目的
1991年の経済自由化以降,インドの大都市では工業化の進展が認められる.デリー首都圏では,外国資本等による産業集積の形成が郊外を中心に進展しており,インドとその大都市の発展を象徴している(岡橋 2011など).こうした大企業が主導する工業化の一方,大都市内部においては作業場レベルの小規模な工場の増殖が認められる.これらは,各種繊維製品や木工製品を伝統的な技術を活用しながら生産しており,特定の社会集団と結びついて大都市内部に産業地区を形成している点に特徴がある.発表者は,こうした生産の拡大を「もう一つの工業化」として捉え,インドの大都市発展の重要な要素として,その位置づけを得るべく実態把握に着手した所である.本研究で対象としたのは,デリーのムスリム地区ジャミア・ナガールJamia Nagarの繊維生産であり,2013年2月~3月に77工場を訪問して情報を収集した.今回は,その生産構造と労働者の特性について発表を行う.
2.生産構造
ジャミア・ナガールは,デリー中心部から南東に約10km離れたヤムナ川沿いに立地するムスリム居住地である.人口密度の高い移民居住地として知られている(Kirmani 2008).調査工場の大半はいわゆる雑居ビルの一室で操業している.生産工程は手織・刺繍やミシン織り,ブロックプリント,染色といったように工場ごとに細分化している.複数の工程を手がけている工場も存在する.直営の販売店を有しているものもあるが,デリー市内の卸売業者やショールームから受注を引き受けるジョブ・ワーク型の取引が一般的である.従業員規模は10名以下の小規模なものが卓越している.
調査工場の経営者と従業員,取引相手の大半はムスリムであり,ムスリム社会を中心とした生産・取引活動が人的(労働力),物的(取引)双方で行われている.また,調査工場のなかには輸出業者と取引する工場や,製品の最終的な販売先が海外の工場も一定数みられる.
3.労働者特性
従業員は全て男性である.彼らはインドのなかでもムスリム人口の多いウッタル・プラデーシュ州,ビハール州などからチェイン・マイグレーションによって移住してきた者であり,デリーで出生した者はわずかである.経営者についても同様である.
起業にはさほど多額の初期投資を必要としないことから,一定の技術と資金を得た従業員が自らの工場を設立している.こうした新設された工場が新たな労働者を周辺州から引き寄せ,当該地域における人口増大と工場集積の促進をもたらしている.
以上から,ジャミア・ナガールにおける繊維生産の特徴は,①取引関係や経営者と労働者との関係においてムスリムのネットワークを基盤としていること,②デリー市街地に卸売業者やショールームが集積しており,市場への近接性が当該地域の繊維生産に優位に働いていること,③起業が容易であるため工場の新設が相次ぎ,出稼ぎ労働者の増加による人口増大と都市化の進展をもたらしていることが明らかになった.
【文献】岡橋秀典 2011. 現代インドの空間構造と地域発展―メガ・リージョン研究に向けて―. 広島大学現代インド地域研究―空間と社会.2: 1-15.
Kirmani, N. 2008. Constructing ‘the other’: narrating religious boundaries in Zakir Nagar. Contemporary South Asia. 16-4: 397-412.