抄録
はじめに
明治維新後に成立した新政府は、国土を把握するために、国別の管轄地図の作製を全国に指示した(明治元年12月24日)。江戸時代の国絵図にならって進められたものであり、江戸幕府の地図編纂事業を新政府が継承したものとして学術的にも注目されている(「明治国絵図」)。政府に集められた明治国絵図は、明治6年の皇城火災によって大部分が消失したが、近年はその位置づけが再評価されており、地方に残された副本や控図の整理・検証も行われはじめている。
今回の報告では、近江国の明治国絵図の下図となる明治2年8月の近江国蒲生郡全図とその関連資料に注目する。近江国蒲生郡全図は、いくつかの副本が確認されている。このうち、蒲生郡日野町村井の正野玄三家文書と大字村井文書には、近江国蒲生郡全図の控図、町村の里程を測った下図、近江国を管轄した大津県からの指示などがまとまって残されている。これらをもとに、近江国における作製過程と特質、測量方法や地図作製技術、近代移行期の地方における地図作製者の姿などを探ってみよう。
近江国における明治国絵図の作製過程
近江国では、大津県が国絵図作成の指示を管轄下に出したが、近江南部は藩領が複雑に入り乱れており、郡ごとに地域の有職者に実務を任せたようである。江戸時代の蒲生郡には、八幡町と日野町の二つの町があったが、それぞれ城主がなく、商人が地域の取りまとめ役としての顔を持っていた。八幡町では、主に商人の中から選ばれた総年寄という組織があり、日野町では町政を統括するための取締役が設置されていた。近江国蒲生郡全図の関連資料が残る正野玄三家は、製薬業などで財を成した日野の代表的な商家で、幕末まで日野の取締役を務めた。明治初年の大津県は、江戸時代からの役職を活用して事業を進めたことがうかがえるが、そこに商人が介在したことは、近江の国柄を表していると思われる。
蒲生郡では、八幡町総年寄が大津県との橋渡し役を務めた。大津県の布達や残された文書によると、郡内各村は十数組にまとめられ、正野玄三家は、その総代を任されたようである。各村には隣の集落の方位と距離、主な道の里程を記した地図の提出が求められ、その雛形が伝達された。正野玄三家には、蒲生郡西半地域の村々から提出された下図がまとまって残されている。東半地域の情報は、おそらくは八幡町の総年寄に集められたものと推察されるが、これらを整合して近江国蒲生郡全図が作製されたものと考えられる。
蒲生郡は丘陵地帯が続いており、各村は隣の集落を見通せないところも少なくない。下図で示された隣の集落の方位と距離は、直線状に結ばれているが、主な道の里程を記した情報は具体的に描かれている。隣村間の情報は、里程の測量値をもとに図上計算されたものと考えることができる。
地方における地図作製者の姿
正野玄三家文書に残される近江国蒲生郡全図の控図や下図には、辻六四文という人物の名がよくみえることから、各村から提出された情報の整合作業は、彼が中心となって進められたことがうかがえる。同図の完成時には、大津県への提出図のほかに、関係者に配るための模写図が十数枚作られたと記録が残されており、現在、県下で確認できる副本は、これらが引き継がれたものと考えられる。 辻六四文は、文久2(1862)年から日野村井町の村方庄屋、明治初年には日野村井町戸長を務めた人物である。村井には、正野玄三家の本宅があり、また、日野町取締役を務めるにあたって日頃から信頼がおける人物であったのだろう。
しかし、彼は村役人というよりはむしろ、地域の地図作製者としての顔ももっていた。彼は若い頃に京都四条派の長谷川玉峰から書や絵画を学んでおり、十字墨谿の号で書や詩歌、絵画などの数々の作品を残している。地域の和算家としても活躍したようで、村役人になる前は寺子屋を開き、明治初年に開校した学校では、戸長を務める傍らで数学教師を務めたという。日野町には、幕末から明治初年の間に作られた古地図が数多く残されているが、その中には彼の名や号がみえるものがかなり含まれている。正野玄三家と深い関係を持ち、地域の地図作製者として経験を重ねていたことから、近江国蒲生郡全図の作製に主体的に関わっていったのだと考えられる。
近世後半から近代前半には全国で数多くの地図が作られており、日本地図史を考える上で重要な時期に位置付けられている。地方で活躍した和算家や地図作製集団の存在が指摘されてきたが、本報告では、地方における明治国絵図の作製過程を検証するとともに、地域の有識者が地図作製と関わった様子を考えたい。