日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 117
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発表要旨
越後国新発田城下町絵図の幾何補正と歴史GIS
*堀 健彦小田 匡保渡部 浩二
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抄録
新発田城下絵図について,城郭周辺を描いた「城図」2点,城下町全体を描いた「城下町絵図」14点,町屋敷を中心に描いた「町絵図」10点の計26点を確認した。ここでは特に「城下町絵図」の体裁と相互の関係性について述べる。
№3は新発田藩から幕府に提出された,いわゆる正保城絵図であり,確認できる新発田城下絵図の中で最も古いもののひとつである。№4は,№3と同時期に制作されたと考えられる絵図であるが,大きな違いは,家中屋敷と町屋敷の記載が詳細なことである。家中屋敷には家臣名と屋敷の間口・奥行などの間数が記されている。町屋敷に屋敷主や間数の記載はないが,簡単な線引きがなされ,屋敷割の様子がうかがえる。一部に破損があり,文字や地割線に不鮮明な箇所がある。本図には,1811年(文化8)に新発田藩家老溝口長裕が,絵図中にみられる藩士名から1645~46年(正保2~3)頃の制作であると考証した添え書きがある。
№8は新発田城下を周辺の地勢とともに描いている点に特徴がある。城下の周辺一帯は,「田」,「ふか田」,「ぬま」が広がる低湿地となっている。また,城下を取り囲むように加治川が流れ,川沿いの小湊村の「船入」が足軽町に続いている様子など,城下と河川舟運のつながりなどがわかる。城下は№4~7とほぼ同様に描かれ,屋敷割や家臣名の記載もあるが,屋敷の間数などの記載はなく,足軽名の記載などもない。
№9・№10は,絵図中の文字記載から1840年(天保11)8月以降の制作と判断される。17世紀前期の正保城絵図と比較すると,上足軽町に隣接して東町が,寺町の裏に泉町が描き足されるなど城下町の拡張や景観の変化などがわかる。家中屋敷・町屋敷ともに屋敷主が記された新発田城下町絵図としても特筆される。ただし,城郭周辺の高禄家臣の屋敷には間口・奥行ともに記されるが,その他の家臣については未記載の部分がある。また,№10には,町屋敷の間口・奥行の記載がみられない。
№11・№12は,構図が№9・№10と共通しており,江戸後末期の制作と考えられる。№11は,新発田藩家老の溝口伊織家所旧蔵とされる。他の絵図にない大きな特徴として,屋敷替えが行われた度に新居住者名を記した紙が貼り足されており,居住者の変遷を追うことができる可能性がある。町屋敷にも屋敷主の記載がみられる。№12も内題「御家中絵図 三ノ丸溝口伊織」から判断すれば,№11同様,溝口伊織家所旧蔵の可能性がある。箱題(「嘉永年間家中屋敷図」)のとおり,嘉永年間(1848~1854)頃の家中屋敷の屋敷主・間口・奥行などを示していると思われる。破損が多いが,№9~№11と比較しうる絵図と考えられる。
これらから,歴史GISに組み込む新発田城下町絵図として,No.9を中心に据えて,他の絵図及び現在の地形との対比を考えていくことにしたい。
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