抄録
1.はじめに
近年,観光の発展は地域活性化の鍵となりつつあり,活用しうる観光資源の発掘が急務となっている.なかでも地域文化は潜在的な観光資源として注目されており,たとえば北アメリカでは各地域における移民史と移民がかつて持ち込んだ文化を活用した観光振興がみられる.こうした動きは,広い意味ではエスニック・ツーリズムと理解されようが,たとえば「伝統の創造」という視点でとらえきれるものばかりではない.本報告では,現地調査に基づいて,カナダ東部の沿海諸州(ノヴァスコシア州,ニューブランズウィック州,プリンスエドワードアイランド州)に居住するアカディアンの文化とそれを活用した観光振興を検討する.
2.アカディアンのアイデンティティ
アカディアンとは,沿海諸州に居住するフランス語を母語とする人々である.ケベック州のフランス語系住民(ケベコワ)と異なる入植の歴史があり,姓が特徴的であることから,フランス系カナダでは十分に区別可能な存在である.フランス語を母語とする人々は,ニューブランズウィック州では人口の約3割をしめ,その多くは北東部,北西部,南東部に居住している.ニューブランズウィック州はカナダで唯一英語とフランス語を公用語とする州である.ノヴァスコシア州では南西部および東部ケープブレトン島の北西部にフランス語話者のコミュニティがみられ,プリンスエドワードアイランド州では西部に古くからのコミュニティが存在してきた.これら2州は英語への同化の進行が著しいが,1990年代以降,教育の分野を中心にフランス語の継承に対する制度的支援が本格化している.
彼らのアイデンティティが確立されたのは1880年代のことである.沿海諸州各地でカトリック教会の聖職者を中心としたフランス語話者のエリートが集まる「アカディアン・ナショナル会議」が数回にわたって開催された.そして,「国旗」としてフランス国旗に黄色の星を加えたもの,「国歌」として賛美歌アヴェ・マリス・ステラが採択され,アイデンティティ象徴体系が整備された.また,アカディアンの祝日として守護聖人マリアにちなんで8月15日(聖母被昇天の日)が選ばれた.これらのアイデンティティ象徴体系の重要性は現在でも失われておらず,アカディアンの多く暮らすコミュニティではカトリック教会やフランス語を教授言語とする学校といった関連施設のみならず,多くの民家で「国旗」がはためいている.
3.アカディアン文化を活用した観光振興
1880年代に確立したアカディアンのアイデンティティ象徴体系は,その成立の経緯を反映して,宗教色の強いものである.フランス系カナダに共通することであるが,伝統的にカトリック信仰はフランス語と並ぶアイデンティティの核であった.しかし,最近では世俗化が進行しており,1990年代までは各教区に司祭が住んでいたが,最近では中心的な教会の司祭が複数の教会でミサを行うようになっている.
そうしたなかで,アカディアン文化を活用した観光イベントにも新たな動きがみられるようになってきた.まず,タンタマル(Tintamarre)の各地への拡散である.タンタマルとは,身近な鳴り物を鳴らしながら練り歩く仮装パレードであり,ニューブランズウィック州北東部のカラケットで始められたが,近年では沿海諸州各地に広がりをみせている.また,同州南東部のモンクトンでは2010年代に入ってから8月15日を中心とする時期にアカディ・ロック(Acadie Rock)という音楽祭が開催されている.