抄録
飛鳥川は「元飛鳥川」扇状地を深く下刻して線状谷として出現しており,この契機は飛鳥川の水落遺跡付近での争奪に求めることができた(木庭,2014)。この争奪について,遺跡立地の観点から人為起源,つまり付け替えとしてきたが(木庭,2017),これまでその確証が得られなかった。この報告ではその確証を示す。
飛鳥川線状谷内に分布する河岸段丘は,米軍撮影などの空中写真判読によって,上位からa~dの4面(d面は現氾濫原)に分けることができる(木庭,2017)。飛鳥宮IIIに付属すると考えられる飛鳥京跡苑池はb面に立地している。苑池遺跡下位層は自然層で,同遺跡遺物の最古のものは飛鳥京跡ⅢA期(656斉明遷宮~667天智遷宮)にあたる(明日香村,2016)。これが飛鳥川線状谷内の段丘b面の上限年代にあたる。この飛鳥京跡ⅢA期中に苑池が完成し利用されていたことは間違いがない。つまり,飛鳥川の水落遺跡付近での付け替えは,もちろんこの苑池に先んじるので,飛鳥京跡ⅢA期が上限年代となる。
付け替えの時期と動機については,著者はすでに論じており(木庭,2017.3),時期については,飛鳥寺造営の後,水落遺跡立地の前としている。水落遺跡(漏刻設置660年)は海抜101mの等高線がc面方向に突出しており,争奪後の段丘面形成後に立地したものであることは確実である。その意味では,成立時期は飛鳥京跡苑池と並ぶものである。
飛鳥京跡苑池の南東に接して,飛鳥宮Ⅲ期遺構がある。現状の飛鳥宮Ⅲ期遺構はその南西部が大きく飛鳥川線状谷によって抉られている。大王の宮がこのような場所に造営される筈はない。この点について未だ誰からも言挙げされていない。それは,地形を所与のものと受け入れる古代史研究の方法論に由来するものだろう。
新たに造営された飛鳥後岡本宮(飛鳥宮跡ⅢA)は斉明二(656)年~天智六(667)年にあたる。それゆえ,斉明天皇が後岡本宮に入って4年後の660年までには抉られてしまったということになる。明日香村(2016)によれば,「(飛鳥宮跡ⅢA)南区の中軸線上には内郭の正門である南門と前殿がある。前殿の東側には2列の掘立柱塀を挟んで南北に長い掘立柱建物が2 棟並んでおり,西側にも対称にあったとみられることから朝堂とみる説もある。(中略)南は公的空間,北は天皇の私的な空間であるとみられている」。前殿東方の「南北に長い掘立柱建物」2棟は検出されているが,西方のそれは未だ検出されていないが,「西側にも対称にあったとみられる」としている。しかしながら,この期待は,西方2棟のうちの西側の場は段丘崖または段丘a面にあたるので,すでに裏切られている。飛鳥宮内郭の正面にあたる南門そして正殿を中軸とする場では特に東西対象性が約束されていなければならず,造営開始当初から現状の地形が存していなかったことはもちろんである。
以上から、付け替えによる飛鳥川線状谷形成の下限年代は斉明元(655)年で、上限年代は斉明六(660)年となり,この6年以内に飛鳥川の付け替えが実施され,政権の思わぬ急激な下刻が進行して宮殿域の破壊が進むことになった。