1614(慶長14)年に松平忠輝は,関川河口右岸にあった福島城から約8km南に位置する内陸の高田に城を移した.高田城移設の理由については議論があるが,沖積平野の地形を利用して城の護りを固めるためであったと考えられる.一方で内陸の氾濫原に築城したことから,水害のリスクが生じた.ここでは,高田城の築城と地形条件との関係を明らかにし,江戸時代における水害の変遷と地形改変との関係について検討を行う.
高田城は,高田面(高田平野団研グループ,1981)と氾濫原の境に造られている.また,高田城付近は,矢代川,櫛池川,青田川,儀明川などの支流が集まってきて関川に合流する場所でもある.この付近の氾濫原には,多くの旧流路が認められることから関川は,かつてこの付近で大きく蛇行していたと考えられる.
高田城周辺の地形分類を行った結果をもとに築城前の流路を復元した(図1).築城時に大きく蛇行していた関川や矢代川の流路が大きく変更され,城下町の周辺に新たな流路が開削されたことがわかる.関川本流は,大きく蛇行していた部分をAおよびBの部分でショートカットして蛇行部分を閉め切り,その一部を高田城の外堀とした.儀明川の下流部および青田川の一部(E)を,人工的に開削して付け替えた. このような大規模な河川改修の結果,城の周囲が三から四重の流路や堀で守られることになった.
高田城は,防衛のためにあえて水害の危険性が高い氾濫原に建てられた.しかし,築城後78年間は,洪水記録が見つかっていない.これは,築城時に関川の蛇行部分を直線化したことによって,この部分の河床勾配が急になり,その影響で河床が掘り下げられた結果,一時的に洪水が起こりにくくなったのではないかと考えられる.しかし,その後,元禄6年(1693)から元治元年(1864)までの171年間には,51回もの水害が起こっている.これは,平均して約3年に1回という高い頻度である.これは,江戸時代の中期にショートカットした流路から東の旧流路跡に流路が移されたことによって再び洪水が起きやすい状況になったものと考えられる.
築城後間もない正保年間(1645-1648)の絵図を見ると,武家屋敷や町人町の分布は,全て低位段丘や自然堤防の上に限られている.当時の人たちは,氾濫原の危険性を十分認識していたものと考えられる.しかし,寛文5年(1665)以降につくられた松平光永時代の絵図を見ると,城下町が氾濫原にまで広がってきている.おそらく築城時から18世紀末までの78年間には,ほとんど洪水が発生しなかったことから,安心して氾濫原まで城下町を広げてしまったのであろう.しかし,その後の松平越中守時代(1700年代初め)の絵図では,この時期に増えた住家の描写がすべて消えている.おそらく,この間に起こった水害で壊滅的な被害が生じたのであろう.