抄録
本研究では,非溶結の入戸火砕流堆積物(A-Ito)からなる笠野原台地の北部において,串良川沿いに発達する低位段丘の分布とその構成層を調査し,低位段丘の形成過程・時期を考察した.
まず,低位段丘の分布を明らかにした.ついで,段丘構成層が観察される露頭において,その分布高度を測量し、構成層(砂礫層)に含まれる最大礫の直径を測定した.砂礫層またはそれより上位の風成層に含まれる軽石塊を6地点で採取し,エネルギー分散型X線分析装置(SEM-EDS)により火山ガラスの化学組成(9元素の酸化物)を求め,A-Ito本体の軽石,および鬼界アカホヤテフラ(K-Ah)との対比を試みた.
串良川の低位段丘としては,砂礫層が阿多溶結凝灰岩を直接覆うものと,この両者の間にA-Itoまたは大隅降下軽石(A-Os)を挟むものとがあり,両者をあわせて「馬掛(まかけ)面群」の新称を与えた.馬掛面群は共通して厚さ3 mのローム層に覆われる.馬掛面群を構成する砂礫層は層厚5 m未満で,高隈山地を起源とする堆積岩の円礫を主体とする.砂礫層中の最大礫の直径は上流から順に重田で31 cm,馬掛で30 cm,平瀬では12 cmと測定された.馬掛面群の砂礫層は直径数cm程度の橙色の軽石を多量に含み,この軽石の化学組成はすべてA-Ito本体の軽石のものと一致した.砂礫層より上位の風成層に含まれる軽石の一部は(K-Ah)と同じ結果を示した.馬掛面群を構成する各段丘面の勾配は,上流の重田から下流の平瀬までおおむね一様であり,現在の河床縦断形と比べて急勾配である.
馬掛面群はA-Itoを急速に下刻した串良川の侵食段丘であるといえ,そのうちの一部の形成高度は阿多溶結凝灰岩の位置に制約された.馬掛面群の形成は遅くともK-Ahの堆積までに終了していたと考えられるが,より詳細な形成年代の推定にはさらなる調査を要する.馬掛面群の構成層における礫の最大径は笠野原面や新堀面を構成する砂礫層のものと比較してはるかに大きい.よって,馬掛面群の存在は,厚い非溶結の火砕流堆積物(A-Ito)が河川によって侵食される過程で,新堀面の形成後に流路が現串良川の位置で固定され,急激に河床を低下させたことを示している.