1.はじめに
法務局の旧公図は,明治22年(1889)4月の土地台帳制度で備え付けられたが,その内訳は,明治5~22年の明治の地籍図(①壬申地券地引絵図,②地租改正地引絵図,③地籍編製地籍地図,④地押調査図)のいずれかが根幹となっており,①~④は非常に大きな地域差を含んでいる。政府は,明治20年6月に地図更正の件を伝達し,地図の雛型を定めた(⑤更正地図)。しかし,実際には⑤が作製されず,①~④のどれか1種類で代用したままで,現在に至った府県も多い(古関2009)。
法務局の旧公図は,以前は原本閲覧が可能だったが,近年はカラープリントの閲覧が基本である(許可を得れば原本閲覧できる場合もある)。プリントしたものは,特定の地番付近が拡大され縮尺が変えられない。そのため,年紀や提出責任者などを探すのが難しく,地図の様式(一筆記載の方法や彩色など)で種類を判定し,作製時期を導く必要がある。
プリントしたものは,普段は1種類しか複写されないが,2種類以上の地図が印刷される場合もある。東京都や京都府では,窓口で旧公図と旧々公図のどちらが必要ですかと尋ねられ,職員さんにどう違うのかと問い合わせてみると新旧2枚あることしか認識していないという。全国で資料調査をする中で,傾向が分かってきたので本発表で整理したい。
2.明治の地籍図(①~④)と更正地図(⑤)が併存する場合
滋賀県や京都府では,明治22年以降~30年代の年紀の更正地図(⑤)を確認することが多い。つまり,明治22年の土地台帳制移行期に⑤は作成されておらず,①~④のいずれかで代用したと考えることができる。図1は大津地方法務局彦根支局の事例である。年紀や奥書などはないが,1枚は滋賀県の地籍編製地籍地図(③)の雛型に準じている(1/1200)。もう一枚は,更正地図(④)の雛型に準じており(1/600),後年の加筆がみられることから,こちらが旧公図の正本として利用されてきたことがうかがえる。滋賀県の法務局では,⑤だけが残る事例が多く,これが作られた時に旧図は破棄されたと考えられるが,例外的に捨てられずに残されたのだろう。京都府では,明治30年代の更正地図(⑤)と明治9~10年頃の地租改正地引絵図(②)が両方残る事例が確認できる。
3.明治22年以降に複製図が作られる場合
地図の劣化や記載情報の変更点が多いなどの理由から,後年に旧公図の複製図が作られた場合がある。その中でも、戦後の急速な変化やコピー機が普及していないなどの理由から,昭和30~40年代に手描きで模写した事例が非常に多い(古関2009:a~c)。複製図は,境界と地番だけを写し取り,旧公図の彩色や地目などを省略する傾向がある。地番を算用数字で記した事例が多いのも特徴的である。中には,写し間違えや細部を省略した事例もみられる。また,旧公図が作られた時期と複製が行われた時期に50年以上の開きがあるので注意が必要である。
付記
本発表は,2021年度の科学研究費(古関大樹「明治期の三大都市の地籍図に関する研究」:奨励研究)の成果の一部を利用したものである。
主な参考文献
・古関大樹(2009),「滋賀県における明治前期地籍図の成立とその機能の変化-佐藤甚次郎説の再検討を通して-」,歴史地理学51 (1), pp21-36.
・古関大樹(2019a),「昭和30~40年代の旧公図の複製図に関する研究(1) 京都府の奈良正図」,登記情報59 (9), pp27-36.
・古関大樹(2019b),「昭和30~40年代の旧公図の複製図に関する研究(2) 和歌山県の旧公図の成り立ちとその複製図」,登記情報59 (10), pp42-52.
・古関大樹(2019c),「昭和30~40年代の旧公図の複製図に関する研究(3) 奈良県の旧公図の成り立ちとその複製図」,登記情報59 (12), pp27-38.