日本地理学会発表要旨集
2022年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: S204
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「沿海地図」から「沿海輿地全図」へ
伊能中図「総合図」の比較分析
*酒井 一輔
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抄録

1.本報告の目的

 寛政12年(1800)に伊能忠敬が測量を開始してから、文政4年(1821)に日本全図「大日本沿海輿地全図」が完成するまでの間に、試作品や中間報告などとして、多種多様な、数多くの伊能図が作られている。忠敬たちは、いかなる試行錯誤と紆余曲折を経て、最終完成形となる「大日本沿海輿地全図」を生み出していったのか。本報告は、「大日本沿海輿地全図」完成以前に作製された諸稿本の地図様式を比較検討しながら、伊能図が完成されていく過程について、新たな段階設定を試みようとするものである。

2.「総合図」に着目する意義

 そこで、本報告では、かつて大谷亮吉(1917)によって提唱された「総合図」という分類に着目する。大谷亮吉(1917)は、測量データから伊能図が製図される過程に即して、「小区域の下図」「寄図」「地方図」「綜合輿地図」の4つの分類を提示した。これらのうち「地方図」とは「忠敬が一出張期間に測了せる全地域を包含せる地図」、一方、「綜合輿地図」とは「地方図を総合して製せる輿地図と称せるもの」、と説明されている。忠敬による全国測量は約17年間に地域ごとに全10回に分けて実施されており、各回の測量終了後には、その都度、その間の測量成果を示す地図が幕府へ提出されていた。つまり、大谷亮吉のいう「地方図」とは、1回の測量旅行中に実測した地域、すなわち1回分の測量成果のみが描かれる図である。これに対して、「綜合輿地図」とは、複数回の測量成果(地域)が統合されて描かれる図、言い換えれば、複数の地方図を集成し、統一した様式へと変換・編集された図であると理解することができる。

 「地方図」から「綜合輿地図」が作られるということは、日本全図の完成へと進む過程でひとつの大きな画期となるものでもある。そこで本稿では、この「綜合輿地図」(以下、「総合図」と呼ぶ。)に改めて着目し、なかでも、もっとも残存事例の多い中図(1/216,000)に分析対象を限定する。

3.大谷亮吉の指摘した総合図

 「総合図」として、いつ、どのような図が作製されたのであろうか。これについて大谷亮吉(1917)では、2種類あったことを指摘している。すなわち、「寛政十二年より享和三年に至る迄の材料によりたる本邦東半部地図及寛政十二年乃至文化十三年の実測全材料並に間宮倫宗の蝦夷地測量の材料を総合して描きたる日本輿地全図の二種あり」と述べている。前者は、東日本域を対象とした第1~4次測量までの成果を統合して作製された図であり、文化元年(1804)に幕府へ上呈されている(以下、このタイプを「文化元年版総合図」と呼ぶ)。一方、後者は、日本列島のほぼ全域を含む第1~10次までのすべての測量の成果を統合して作製された図であり、文政4年(1821)に「大日本沿海輿地全図」の名称で幕府へ上呈された(以下、これと同様の図を「文政4年版総合図」と呼ぶ)。

4.“もうひとつ”の総合図

 大谷亮吉(1917)以降、伊能図の所在調査が進み、その時点では未確認だった中図がいくつか発見されている。こうした新発見の中図を検討すれば、従来知られてきた文化元年版総合図と文政4年版総合図の2種類の他に、新たにもう2種類の総合図が存在することが判明する。

 ひとつ目は文化元年版以前に作製された総合図であり、ふたつ目は文化元年版以降、文政4年版以前に作製された総合図である。具体的に言えば、前者は第1次と第2次の測量成果を統合したもので、現在、早稲田大学図書館に所蔵される「大日本天文測量分間絵図」がこれに該当する。一方、後者は第5~7次測量の成果を統合したもので、現在、徳島大学附属図書館に所蔵されている「大日本沿海図稿」がこれに該当する。とくに後者のタイプの総合図は、文化元年版総合図以降、日本全域を描いた文政4年版総合図が完成するまでの間に作製された総合図であり、伊能図の作製過程を考えるうえで特筆に値する。

 また、徳大本「大日本沿海図稿」の類例と考えられるのが、学習院大学図書館所蔵中図「大日本沿海輿地全図」である。同図は、蝦夷地太平洋沿岸から東北、関東、北陸、東海、近畿、中国、四国までの地域を、8枚に分割して描いている。保柳睦美(1980)が指摘する通り、同図を子細に検討すると、東日本域を主に描いた5舗(≒文化元年版総合図)と西日本域を主に描いた3舗の2組から構成されていることが判明する。すなわち、同図は実質的に2組の総合図の集合であると理解される。

5.結語

 徳大本「大日本沿海図稿」が作製されていた頃、恐らくは第8次測量前後の時期に、伊能忠敬たちは、①西日本域を中心とした新たな総合図の作製に着手していた、②試作された西日本域の総合図と既に作製済みの東日本域の総合図を統合して日本全域の総合図を作製しようと模索していたのである。

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