日本地理学会発表要旨集
2023年日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 618
会議情報

中国湄洲島における観光化に伴う祭礼の継承
―媽祖生誕祭の担い手の対応に着目して―
*王 倚竹松井 圭介
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録

1.はじめに

 中国では1980年代以降,農山漁村地域から都市地域へ多くの人口が流出し,農山漁村地域では定住人口が急速に減少した.一方で2010年代以降国内観光業の発展に伴い,農山漁村地域への観光客の大幅な増加がみられ,こうした現象は,近年における伝統文化としての祭礼の変容と継承に大きな影響を与えている.祭礼の観光資源化により担い手の広域化・多層化が進んでおり,地域コミュニティを維持する役割を担うのは地元住民だけではなく,地域外に居住する他出者や同好者などを含めた多様な主体によって維持されていることが指摘された(和田,2017).しかしながら既往研究では当該地域の居住者に着目する研究が多いのに対して,地域外居住者による祭礼への参与に関する研究は少ない.本研究は中国湄洲島における媽祖生誕祭を事例に,祭礼の担い手に関わる多様なアクターが時代の変化の中でどのように祭礼運営に関わってきたのかを検討することを通して,祭礼の変容プロセスと継承の実態解明を試みている.

2.媽祖信仰と生誕祭の特徴

 媽祖は,中国福建省で宋代から登場する海の女神であり,「天妃」「天后」「天上聖母」などの愛称で呼ばれている.生前は巫祝を職とし,雨乞い,疫病払い,海寇の抵禦,海航の護り,禍福の予知などの役割を担い(王燕萍,2020).死後,湄州島を中心に,福建省や,広東省などの南方域の地方神になり,漁民,海商,官僚など,多様な主体によって祀られ,媽祖祭礼の儀式も南宋に形成された.明朝に入ると,外交使節の航海,海運による交易や物資の輸送などのことが頻繁で,媽祖の霊験を必要としていた.このため,媽祖が霊験を顕すと,朝廷からその功績を讃える封号が授与され,媽祖生誕祭も例祭として確定され,国家祭典になった.しかし,民国紀元に入ると,戦争のため,媽祖祭礼は断続的に行い,一時中止されたこともある.1980年代以降,宗教文化は徐々に回復し,媽祖信仰が福建省や広東省などの宗教文化が篤かった地域で次第に復活した.

3.湄洲島における媽祖生誕祭の変容プロセス

 1994年に媽祖生誕祭が復興以降,祭礼規模と担い手を基に復興期(1994~2003年),発展期(2003~2011年),成熟期(2011年~現在)に区分できる.復興期と発展期における担い手は地元の運営組織メンバー,学校教員,漁民らが出演の主役となっていたが,湄洲島の孤立性,交通不便と不景気の影響で,若年労働者の流出が顕著となっていたために,人手不足と祭礼の質が低いことなどの問題に直面していた.

 こうした状況下において,2011年に地元住民が出演する慣例を変更し,一部の儀式は莆田学院(莆田市)の在校生が担当し,祭礼チームの所作はより規律的になった.また,2013年に発表された「一帯一路」の新政策に対応するために,2014年に媽祖祭礼の内容は再び変更された.伝統を受け継いだ上で,祭礼の舞踊に青色のシルクを使用し,媽祖文化と海上シルク文化の融合を表した.祭礼規模は521人に拡大し,史上最大規模の媽祖生誕祭になった.

4.観光化される媽祖生誕祭をめぐる各主体の対応

 現在の媽祖生誕祭を運営する役割を担うのは,地域内の住民(運営組織メンバー,従来の祭礼儀式に演者となった地元住民)だけではなく,地域外に居住する他出者(莆田学院の在校大学生)を含めた多様な主体によって維持されている.

 地域内の担い手は30代の地元住民を中心とした.多くの担い手は媽祖信仰に高い愛着を持っていて,媽祖文化の継承への義務的・規範的意識を持っている.一方で地域外の担い手は10代20代の在校大学生を中心に,半数以上の人は媽祖信仰を持っていなかった.媽祖文化と生誕祭自体への興味を理由に参与する人が多かった.

5.おわりに

 1980年代以降,湄洲島の人口流出と観光業の発展は媽祖生誕祭の復興と継承に大きな影響を与えた.祭礼の担い手確保のため,他地城居住者が関わるようになり,担い手の広域化・多層化が進んでいて,属性(出身地や年齢)に応じて担い手は祭礼文化の継承において異なる意識を持っている.

著者関連情報
© 2023 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top