日本地理学会発表要旨集
2024年日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 409
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木曽川三派川地区における堤外地集落の存続メカニズム
*高橋 徹大
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抄録

1. はじめに わが国の河川は公共用物とされ,道路などと同じく,原則として共同使用に供される。その一方で,河川空間には民有地も存在しており,河川法の範囲内で排他的利用が行われてきた。堤外民有地での居住すなわち堤外地集落も,そうした利用の一形態である。かつて,堤外地集落は河川流域に広く分布していたが,洪水被害,河川生業の衰退,河川改修の進展といった要因により大きく減少した。一方で,少数ながら堤外立地を継続する集落が存在することも注目すべき事実である。現代において,河川と最も近接した生活を営み続けている堤外地集落の状況を分析することは,現代河川空間をめぐる流域治水・水辺活用といった課題への取組に必要となる,河川-人間関係の再構築に有益な示唆を与えてくれるだろう。本発表では,岐阜県木曽川流域に存在する堤外地集落に着目し,河川法との関係を踏まえつつ,集落存続のメカニズムを明らかにする。

2. 対象集落の立地 本研究の対象地域は,岐阜県各務原市下中屋町の弥平島(やべじま)集落である。木曽川は,濃尾平野に出て木曽川扇状地を形成し,当集落付近で本川・南派川・北派川の3流路に分派する(図1:三派川地区)。当集落は,本川・北派川分派部上流の右岸堤外地に位置し,右岸堤防との間には新境川(北派川に合流)が流れている。かつて,木曽川の本流は現在より北側を通っており,当集落は網状支流内の一中州であったと考えられるが,16世紀末に発生したとされる大洪水で河道が変化して以降,木曽川本流に隣接することとなった。17世紀初頭には,新本流とその派川群を取り囲むように連続堤防が築造され,当集落は周辺の中州とともに堤外地化した。大正期に着手された木曽川上流改修工事で流路が整理された後も,三派川地区周辺には多くの堤外地集落が残置された。しかしながら,第二次大戦後に堤外地集落を解消する堤防整備が進行し,現在は弥平島集落のみが堤外地に存続している。

3. 弥平島集落の存続メカニズム 弥平島集落の人口は,統計資料が存在する昭和56年(1981)以降減少傾向にあるが,平成25年(2013)頃からは4世帯・10名前後で安定している。また,世帯数が減少する際に人口も5名程度減少する現象が複数回みられ,家族単位での転出が発生したと推定される。上記の人口動向と住民・河川管理者等への聞き取り結果を総合すると,弥平島集落が現在まで存続してきたメカニズムは以下のように説明できる。まず,一定数の人々が堤外居住を継続している理由は,「転出する必要がないため」である。中洲状の堤外地に位置する当集落の人々は,扇状地の特性に合わせて築捨堤などの水害対策を講じつつ,養蚕・川業に代表される堤外立地に即した生業を営んでいた。第二次大戦後,徐々に生業が失われたことで堤外地居住のメリットは薄れたが,河川改修による水害激減・独立集落ならではの良好な居住性・周辺地域の発展による利便性向上が相まって,集落から転出する積極的動機もなくなったのである。また,当集落の住民は全員が親戚関係にあり,各務原地域で「一統」または「組」と呼ばれる同族コミュニティを形成している。こうした一統単位で行われる神社の維持・川祭り・組法事といった宗教行事も,当集落における地縁・血縁の相互補強に貢献した。一方で,現在の集落規模に至るまでの人口減少には,河川法に基づく住宅への制約が影響したことも明らかとなった。昭和43年(1968)の河川区域指定以降,当集落では工作物(住宅)の新築等が制限されている。合法的な堤外地集落の住宅に対して,明文化された対応指針は存在しないが,当集落では「現在建っている建物を同規模で建て替えるのは許可,新築は不許可」という許可慣例が形成された。その結果,集落拡大が抑止されるとともに,その制約を嫌った住民が転出し,現在の人口規模に到達したのである。以上より,現在の弥平島集落は,優れた居住環境を前提としつつ,河川法に基づく住宅建築の制約を受容できる住民によって存続しているといえる。

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