主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2025年日本地理学会春季学術大会
開催日: 2025/03/19 - 2025/03/21
道路元標とは、1919年(大正8年)4月の(旧)道路法によって定められ、同年11月に関係法令の道路法施行令にて全市町村に設置することが規定された道路附属物である。そして1922年(大正11年)の内務省令で25cm角、高さ60cmの石柱で上部を丸くした形状と指定された(内山2003)。
その役割は国道・道府県道・郡道の起点終点および経由地を定める際に単に「◯◯市町村」とある場合に具体的な場所は道路元標設置位置とするもので、近代的な道路管理体系を目指した(旧)道路法の要であった。
その後1952年(昭和27年)に(新)道路法が施行されたことにより維持をする必要がなくなり、漸減している。
現在まで残っている道路元標は約2000基で、設置されたとされる数に対して1割程度となっている。また残存数の地域差も大きい。この極端な地域差はそもそもの設置方針が地域によって全く異なるものだった可能性を強く示唆している。
現在も残る道路元標の多くは定められた形状通りであるが、半数弱は異なる形状となっている(今泉2015)。異なるものになった原因としては、道路法で設置が定められてから内務省令で形状が定められるまでに3年間経っており、その間に設置した分は内務省令が反映できていないからと考えられる。これにより地域毎に細かい形態差が生まれ、設置主体の境界線が今でもわかるようになっている。
ほとんどの地域では郡役所が設置主体になったことを示唆する分布となっている。ただし北海道や石川県などでは道庁・県庁が全域を統括したことを示唆する分布になっており、愛知県などでは付近数郡で纏まった設置行動を起こしたことを示唆する分布となっている。
近代において日本全国に対して完全に同一規格の構造物を多数設置するという取り組みはさほど多くなく、今も1割程度とはいえ多数残存していて直接確認できる状況のものはほかに類を見ない。道路元標を通して近代道路行政の統制状況を把握することが可能である。道路元標の形状一つとっても大正時代の日本における道路行政は上意下達の不徹底を垣間見ることが出来る。