日本地理学会発表要旨集
2025年日本地理学会春季学術大会
セッションID: P039
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山﨑直方が描いた「ふるさと」高知のスケッチ画と生家
*橋詰 直道山﨑 和男山﨑 芳男
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抄録

日本地理学会創設者のひとりで初代会長となった山﨑直方は,1870(明治3)年に高知縣土佐郡旭村赤石(現高知市赤石町)にて山﨑潔水の子として生まれたことは知られているが,生誕地の詳しい場所だけでなく,東京に出た年についても知られていない。また,直方が上京した後に郷里高知のことについて記したものの存在を筆者らは知らないが,1891(明治24)年,直方が第三高等中学校の冬休みを利用して帰省した際に,生家を含む「ふるさと」高知(主に現在の高知市内)の風景を描いたスケッチ画が山﨑家に現存する。このスケッチ画は,まだ写真記録がほとんどなかった当時の高知の風景や生活の一部を写し取ったものであり,それ自身が貴重な史料でもある。今年2025年は,日本地理学会創設百周年にあたり,初代会長となった近代地理学の祖,直方の足跡の一端をこれまで紹介されてこなかった史料やスケッチ画を用いて考察する意義は大きいと考える。本報告は,山﨑家に関する様々な公的・私的史料情報と山﨑家に残されている直方による34点のスケッチ画をテキストとして,現地調査と関係付けながら分析することで当時の直方の故郷への眼差しの一端を考察すると同時に,直方の生家(旧宅)の特定を試みようとしたものである。調査の結果は,以下のように要約される。山﨑家は,父潔水の官吏としての仕事の関係で,直方が5歳の時に東京に移住している。1891年,直方が三高の冬休みを利用して郷里高知に帰省した際に描いたスケッチ画からは,この旅が直方にとって念願の「ふるさと」高知への帰省旅行であり,ふるさと高知の風景の記録にとどまらず,幼い頃の記憶の追体験,あるいは先祖を敬う思いといった故郷への郷愁と尊敬の眼差しを垣間見ることができる。スケッチ画No.16のメモには「最も懐かしいもの(赤石の旧宅)」と記されており,生家(旧宅)訪問がこの帰省の一つの目的であったと言えよう。1938年に高知を訪れた田中啓爾が,直方の生家を赤石町5と記したフィールドノートのメモが発見(立正大学田中啓爾文庫)されたが,高知地方法務局の地籍図(1936(昭和11)年当時)や直方のスケッチ画を詳細に検討すると,その区画は旧士族邸としては間口が狭く,敷地の向きや遠景の山(鴻ノ森:標高300m)の見え方が異なるなど,生家をその番地とする指摘には疑問が残る。スケッチ画に描かれた前面小路と水路,遠景の鴻ノ森の見え方などから推定すると,現在の赤石町54番地付近の風景が最も適合するように思われるが,未だ正確な場所の特定には至っていない。

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