日本物理学会誌
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電荷密度分布を見る~放射光X線による精密構造解析の新展開~
澤 博
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2019 年 74 巻 1 号 p. 14-23

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抄録

電気を流す有機物を合成する.これが「有機物は絶縁体である」という通常の常識を破る化学者の挑戦の一つであった.有機物は基本的に原子間の結合に持てる電子を使ってしまって,導電性という自由度を失っている.ところが,分子を形成する分子軌道の中で,フロンティア軌道の電子(いわゆる価電子)に自由度が残されるとき,金属的電気伝導だけでなく超伝導などのエキゾチックな物性を示すことがある.物質を構成する分子や原子の価電子の自由度に拮抗した相互作用が存在するとき,多体問題として扱われる多彩な電子相が現れる.現在では,多くの有機物,分子性結晶が合成され,超伝導や磁性など様々な物性を示す物質群が合成可能となった.これらの構成分子のなかの電子状態を記述するための量子化学計算は進化し重要な位置を占めているものの,結晶や凝集体の物性を計算によって全て予測することはいまだ困難である.様々な物性を総合的に理解するためにも,その舞台である結晶中の電子密度,とりわけ価電子密度の実験的な観測が必要である.

主に電子による散乱であるX線回折実験を用いて結晶からの回折強度と位相の両方が決定できれば,原理的には逆フーリエ変換によって電荷密度分布を得ることができるはずである.しかし,現実の回折実験では有限な回折データしか得られないという原理的な限界が存在する.更に,物性に直接寄与する価電子帯だけの電荷の実空間情報を抽出することは殆どできない.我々はこの限界に挑戦するため,大型放射光施設SPring-8で得られる高輝度・高分解能なX線と良質な単結晶試料を用いて,結晶中の価電子密度分布を分離観測できることを示した.原子の持つ内殻の電子分布を差し引いた価電子情報だけを抽出するこの手法を,コア差フーリエ合成解析(CDFS; Core Differential Fourier Synthesis)法と名付けた.新手法の有効性の検証のために,多角的に物性が調べられた標準的な物質として,擬1次元性分子性導体(TMTTF)2PF6を選びこの手法の精度を精査した.同形の結晶構造を持つ一連の物質群には,低次元電子系に特有な,電荷密度波,スピン密度波に加えて,分子性伝導体として圧力下で初めて超伝導が観測されるなどの多彩な電子相が発現することから,1980年代から精力的に研究されてきた.分子性導体における電子相関によるMott絶縁相の存在,誘電率測定による電荷秩序相への転移など,この系の多彩な電子相がクローズアップされた.精力的な研究にもかかわらず,電荷秩序相の電荷の偏在の直接証拠を捉えられず“structure-less transition”と呼ばれて,実に40年間ミステリーであった.

我々は,CDFS法によりTMTTF分子のフロンティア軌道の電子雲を捉えて電荷秩序の詳細を解明した.内殻電子と価電子を切り分けることで価電子状態を評価でき,TMTTF分子内の実空間電荷密度分布を得ることに成功し,多くの物理学者の予測が正しかったという長年の謎に決着を得た.CDFS法はまだ始まったばかりの新しい手法であるが,分子性結晶という複雑な系で成功を収めたことで,回折実験から電荷密度分布を得るための新たな選択肢を提供すると考えている.この手法には特殊な技術は必要なく,良質な単結晶と高品質の放射光X線回折データを得られる施設の利用で,誰にでも測定・解析が可能である.分子性結晶だけでなく遷移金属酸化物など多彩な物質群にも適用可能であり,軌道の物理の観点からこの手法の活用と様々な展開を期待している.

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