抄録
【はじめに、目的】 高齢者は屋内で過ごす時間が多く、居住空間のなかでは歩行の開始や停止および、方向転換を頻回に繰り返す必要がある。歩行開始動作は複雑な姿勢調節のもと遂行されており、足圧中心(Center of Pressure:以下COP)が遊脚側後方へと移動することで重心との位置関係にずれが生じ、前方への推進力が得られる結果、一歩目が踏み出される。高齢者における歩行開始動作の特徴は、COPの移動が若年成人と比して減少し、効率的に一歩目を踏み出すことができないことが挙げられる。一方、高齢者にとって居住空間には転倒の危険因子が多く混在する環境である。その中でも特に夜間の移動に関しては、照度が不十分であることによって障害物の認知が困難になることだけでなく、視覚情報が制限されることで姿勢調節に影響を及ぼす可能性がある。そのため、異なる照度環境下における歩行開始動作の姿勢調節について検討する必要がある。そこで、本研究では照度の違いが歩行開始動作に与える影響を明らかにするとともに、その加齢による影響も検討することを目的とした。【方法】 対象は若年成人群10名(平均年齢22.9±0.6歳)と地域在住高齢者群10名(平均年齢74.4±5.6歳)とした。選定基準として、歩行する際に杖などの補助具が必要な場合、裸眼または矯正視力が0.5未満の場合、急性な神経学的・整形外科的な診断を受けている場合は対象から除外した。課題は安静立位からの歩行開始動作とし、検者による動作開始の合図の5秒後に快適な速度にて歩行を行うこととした。この課題に対してデジタル照度計(ミノルタ株式会社製)を用いて明所条件(200lux以上)と暗所条件(1~5lux)を規定し、それぞれの条件において5回ずつ実施した。なお、課題の施行順は無作為とした。暗所に順応するための視覚的な生理反応である暗順応を考慮し、暗所条件測定前には30分の暗順応時間を経てから測定することとした。測定器具は床反力計(Kisler社製)を用い、サンプリング周波数1000Hzで安静立位から一歩目が踏み出されるまでのCOPの後方移動距離を記録した。また、暗所条件における恐怖感などの心理的要因を測定するために、左端の0を「まったく恐くない」右端の10を「とても恐い」とした10cmの直線を使用し、暗所条件ではどの程度の恐怖感を感じたのかをVisual Analog Scale法(以下VAS)にて聴取した。統計学的分析は、明所条件におけるCOPの後方移動距離に対してMann-WhitneyのU検定を行い、若年成人群と高齢者群で比較した。また、COPの後方移動距離に対して群(若年成人群、高齢者群)と照度条件(明所条件、暗所条件)を要因とした反復測定分散分析を行い、照度の違いによる加齢の影響を検討した。有意水準は5%とした。【倫理的配慮、説明と同意】 本研究は札幌医科大学倫理委員会の承認を得た上で行った。また、対象者には書面および口頭にて十分な説明を行い、書面にて同意を得た。【結果】 U検定の結果、明所条件におけるCOPの後方移動距離に群間で有意な差は認められなかった(p>0.05)。暗所条件では高齢者のCOP後方移動距離(2.1±1.3 cm)、若年成人のCOP後方移動距離(2.5±1.6 cm)であり、反復測定分散分析によってCOPの後方移動距離に群と課題条件の有意な交互作用が認められた(p<0.05)。また、暗所条件における恐怖感についてVisual Analog Scale法にて聴取したところ、両群ともに1cm未満であり群間に有意な差は認めなかった(p>0.05)。【考察】 若年成人群と比較して高齢者群は暗所条件における歩行開始時のCOP後方移動距離が有意に減少しており、暗所条件のように視覚からの情報入力が制限されている状況では前方への推進力が十分に得られていない可能性が示唆された。暗所条件では視覚からの情報入力が減少することで周辺環境の認知が困難となり、その影響は視覚機能が低下した高齢者の方が大きかったと考えられえた。また、暗所条件における恐怖感はVASにて両群ともに1cm未満という結果であったため、今回の環境設定では心理的要因による影響は少なかったことが予想された。したがって、周辺環境の認知が必要であるフィードフォワード制御によって姿勢調節がなされている歩行開始動作は、視覚からの情報入力が大きく貢献しており、視覚機能が低下している高齢者では歩行開始動作が不安定になることが示唆された。【理学療法学研究としての意義】 高齢者は身体活動の変換期である歩行開始動作において、視覚情報が制限される状況では不十分な前方推進力のまま動作を実行していることが示された。これは環境の変化による高齢者の姿勢制御の適応に関する基礎的な知見を補完するものであると考える。