抄録
【はじめに、目的】 日常生活での慢性ストレスは、うつ病の重要な危険因子であり、うつ病などの精神神経疾患は世界疾病負担の原因のうち約14%を占め大きな問題となっている。慢性ストレスがうつ病の原因となる機序のひとつに、視床下部-下垂体-副腎皮質 (HPA) 系の亢進によるコルチコステロンの過分泌が関与している。長期にわたるコルチコステロンの暴露は、神経系に可塑的変化をもたらし、うつ病の発症や進行に関連すると考えられている。一方、運動習慣はうつ病発症の予防効果を有することが報告されているが、その機序については不明な点が多く、運動による神経系の形態変化を調べた報告はない。本研究では、慢性拘束ストレス(CRS)負荷による抑うつモデルラットを用いて慢性ストレス環境でのトレッドミル運動が抑うつ発症と前頭前野や海馬の樹状突起に及ぼす影響を検討した。【方法】 実験動物には6週齢の雄性SDラットを使用し、CRSを負荷する群(CRS群)、CRS負荷とトレッドミル運動を行う群(CRS+Ex群)、最小限の処置のみ行う群(Con群)に振り分けた。拘束ストレスには、内径5 cm、長さ20 cmの透明な円筒を使用し、CRS群およびCRS+Ex群には1日3時間、21日間連続でこの円筒内に閉じ込める拘束ストレスを負荷した。また、CRS+Ex群はCRS負荷の直後に1日30分、21日間のトレッドミル運動を行わせ、速度は5 m/分(5分間)、8 m/分(5分間)、11 m/分(20分間)とした。抑うつ行動評価にはスクロース消費テスト(SCT)を週1回、強制水泳テスト(FST)をCRS負荷終了後に行った。SCTは4%スクロース溶液と水を3時間同時に与え総消費量に対するスクロース消費率を算出した。FSTは、ラットをプール(水温:25±1 ℃)内に5分間放置し、immobility timeを測定した。また脱血時に副腎を採取しその重量を体重比で算出した。脱血後、脳組織を取り出し、左半球はGolgi-Cox染色に、右半球は抗MAP2抗体(樹状突起マーカー)による免疫組織化学的染色に用いた。Golgi-Cox染色後、前頭前野Anterior cingulate(AC)、Prelimbic(PL)、Infralimbic(IL)領域の第II、III層錐体細胞と海馬歯状回顆粒細胞層およびCA3、CA1領域の錐体細胞を領域毎にSholl’s analysisにより解析した。MAP2の免疫染色像も同領域別にImage Jにより染色性の解析を行った。また、別の脳組織を用いて前頭前野および海馬におけるMAP2のウェスタンブロット法による蛋白量の定量化を行った。【説明と同意】 本実験は、名古屋大学医学部保健学科動物実験委員会の承認のもとで行った(承認番号:022-032)。【結果】 SCTでは、CRS群のスクロース消費率がCRS負荷開始7日目以降Con群より低く、14日目以降CRS+Ex群よりも低値を示した( p <0.05)。FSTにおいてはCon群に比較し、CRS群はimmobility timeが有意に長かった( p <0.05)。副腎重量体重比はCRS群が他の2群に比べ有意に高かった( p <0.05)。また、組織学的評価ではSholl’s analysisの結果、海馬歯状回領域における樹状突起長はCRS群が他の2群に比べ有意に短かった( p <0.05)。MAP2の光学濃度は、前頭前野PL、IL領域および海馬歯状回領域においてCRS群が他の2群と比較し有意に低値を示した( p <0.05)。ウェスタンブロット法では、CRS群の前頭前野におけるMAP2の蛋白量が他の2群に比べ有意に低値を示した( p <0.05)。一方、海馬領域のMAP2蛋白量は群間に有意差はみられなかった。【考察】 CRS群はSCT、FSTでの結果から抑うつ症状がみられ、CRS+Ex群では、運動による抗うつ効果が示された。CRS負荷によりHPA系が亢進し副腎皮質が肥大したものと考えられる。コルチコステロン受容体(GR)は前頭前野や海馬に豊富に存在し、HPA系の制御に重要な役割を果たす。また、HPA系の亢進に伴うコルチコステロン‐GR複合体がCREBでのリン酸化を阻害しBDNF mRNAの転写を抑制することが報告されている。このような機序により、前頭前野や海馬歯状回領域での樹状突起退縮が生じ、抑うつ症状がみられたと推察される。それに対し、CRS+Ex群では拘束ストレス負荷後に運動を行うことで、HPA系の亢進を抑制した結果、特に前頭前野での樹状突起退縮が抑えられたと考えられる。【理学療法学研究としての意義】 慢性ストレス環境での運動が抑うつ症状、組織に及ぼす影響を検討することで、新たな知見を得るとともにより効果的な運動条件を検討する手段となる。