抄録
【はじめに、目的】 我々はこれまで、肩関節の3次元的な運動範囲の研究発表をしてきた。肩の運動計測にはいくつもの問題がある。1つは多自由度の運動の計測とその結果表現をどうするかという問題。我々はsinus(サイナス)モデルに基づく球面座標解析を用いることでこの問題の一部をクリアしてきた。別の問題として、体幹のいわゆる「代償運動」がある。体幹を拘束して計測することでこの問題を回避する方法もあるが、運動が不自然になる欠点がある。我々は体幹運動を自然にまかせ、体幹固定座標系における上腕方向を計算することによって、代償の効果を除去する方法をとってきた。一方で、このデータを代償効果除去前のデータ(外部空間座標系の上腕方向)と比較することで、体幹の代償運動を量的(数量的)に厳密に見ることが可能である。ここでは健常者の最大可動範囲の球面座標解析データから解析した、体幹代償運動について発表する。【方法】 対象は肩に既往のない健常成人男性12名(23 ~ 35歳)の両肩。3次元の角度(オイラー角)を計測できる装置 PATRIOT (Polhemus社)を用い、上腕部・胸骨部にセンサを装着し、上腕長軸方向と胸骨の傾きの変化を 60Hz で計測した。被験者は股関節・膝関節90°屈曲位の端坐位で、基本平面内運動、分回し、その他肩を大きく動かすための数種類の運動課題を行った。それぞれの運動における上腕長軸の3次元的方向の可変範囲は、球面座標上の領域として表現される。全運動課題の可変範囲を重ね合わせた最大領域を、その被験者の可動範囲(sinus)とした。上腕長軸方向は、外部空間座標系(体幹代償あり)のものと、体幹固定座標系(体幹代償分を除去)のものを計算し、両者のsinusを求め、比較した。計測、解析、可視化には、MATLAB (MathWorks社)で本研究用に開発したソフトウェアを用いた。【倫理的配慮、説明と同意】 対象者には事前に研究の趣旨を口頭及び書面で説明し、書面で同意を得た。【結果】 体幹代償分を含むsinusは、体幹代償分を除去したものよりも当然広い領域をもつ。従って、それぞれの領域の境界線を上腕長軸方向を示す球面座標グラフ上に表すと、前者が後者を囲むように表示される。しかし、両者は同心円状に配置されるわけではなく、部位によって両者の距離が変化した。その変化の傾向は、どの被験者でもほぼ以下のようであった。上腕の挙上角度が小さい部分では、両者が重なっていた。両者の差が最大になるのは、右肩では右後ろ、左肩では左後ろの領域(24肩のうち22肩で、水平外転0度よりも後ろで、水平位以上の高さの位置)であった。両者の差が最大とみられる部位の角度(体幹代償の影響の有無による上腕方向変化に相当する角度)を各被験者の左右肩別に算出した結果は、右肩56°±6.6(平均±標準偏差)、左肩52°±7.9であった。【考察】 上腕が下向きの場合、上腕と体幹が接触する部位では、体幹によって上腕の運動が制限される。この部位では両sinus共に個人差は出にくく、また、体幹の代償が起こらないので、両sinusは重なる。一方、上腕が挙上するにつれ、体幹運動の関与の余地が大きくなるので、両sinusの境界線が離れる事が可能になる。実際、全被験者の結果はそのとおりになっていた。一方、今回の結果から、水平外転方向で上方に上腕が向くときに、両者の境界線の乖離が最大になる傾向が明らかになった。屈曲の最終域や、水平内転方向の運動でも、体幹の関与は可能と考えられるが、乖離が最大になるのはそこではなかった。その理由のひとつとして、上肢が視野内にあるかどうかの影響が考えられる。なお、本研究では両sinusの領域の相違に基づき解析した。結果に示した最大値は、領域の最大乖離地点では「少なくともこの角度分の体幹運動関与があったはずだ」という意味の数値である。実際の体幹の関与は、これよりも大きい可能性がある。どの方向にどの大きさの影響があったかを調べるには、最大領域だけではなく個々の運動軌跡による解析が必要になる。【理学療法学研究としての意義】 目的の関節以外の動きは、代償運動として制限されるべき場合がある。逆に、適切な協調運動として利用するべき場合もある。これらの研究の材料として、ここで明らかになった健常者の肩最大運動時における自然な体幹運動範囲や傾向のデータは有意義であろう。